tag:blogger.com,1999:blog-12157917194297904822024-03-06T11:19:06.277+09:00Cahiers André BazinCahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comBlogger22125tag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-14368122649603367322022-04-04T20:47:00.001+09:002022-04-04T21:45:13.126+09:00『アンドレ・バザン研究』第6号の入手方法<p><span style="text-align: justify;"> 『アンドレ・バザン研究』<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2022/03/6.html">第6号</a></span><span style="text-align: justify;">は非売品で、国会図書館および一部の大学図書館を除いて、一般に流通しません。</span></p><p><span style="text-align: justify;"> 入手を希望される方には、実費(送料分)で送付いたします。</span><b style="text-align: justify;">任意の封書に①『アンドレ・バザン研究』第6号を希望する旨のメモ、②送付希望先の住所・氏名を記載した<a href="https://www.post.japanpost.jp/service/smartletter/index.html">スマートレター</a>(180円)の2点を封入のうえ、以下の宛先に郵送</b><span style="text-align: justify;">してください(往信の切手代はご負担ください)。折り返し、封入いただいたスマートレターにて第6号をご送付いたします。</span></p><div style="text-align: justify;"> <b><span style="color: red;">発送作業は2022年4月下旬以降に順次行う予定</span></b>で、場合によっては一ヶ月程度ずれこむ可能性もあります。遅延しても必ず発送はいたしますので、どうかその旨、ご了承のうえお申し込み下さいますようお願いいたします。</div><br /><div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;"><b>【送付先】</b><br />〒990-8560<br />山形県山形市小白川町1-4-12<br />山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内 アンドレ・バザン研究会</div><br />※スマートレターは全国の郵便局等でお買い求めください。スマートレター以外の方法による送付はいたしかねますので、必ずスマートレターをご用意ください。<br /><br />※発送作業は研究所の所員が行うため、出張などにより発送まで10日間程度の期間をいただくこともあります。また、授業期間外の場合、発送まで大幅に時間がかかることもあります。どうかご了承ください。<br /><br /><div>※現在、頒布が可能なバックナンバーは、<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2019/03/3.html">第3号</a>、<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2020/03/4.html">第4号</a>、<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2021/03/5.html">第5号</a>のみとなっています。<b><span style="color: red;">『アンドレ・バザン研究』第1号および第2号の頒布は終了しております</span></b>ので、ご留意ください。<div><br /></div><div>※バックナンバーの入手を希望される場合は、<b><span style="color: red;">必ずご希望の号を明記のうえ、</span></b>送付希望先の住所・氏名を記載した<b><span style="color: red;">冊数分のスマートレターを封入</span></b>して下さい(万が一ご希望の号が不明な場合は、より新しい号を発送させていただきます)。厚さの関係で、複数の号を一つのスマートレターに同梱することはできかねますので、ご留意下さい。<br /><br />※残部僅少となった場合、このブログでも告知し、受付を中止します。<br /><div style="text-align: right;">以上</div></div></div>CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-14763954552675053572022-03-31T12:34:00.003+09:002022-04-11T09:39:01.378+09:00『アンドレ・バザン研究』第6号の刊行<p> アンドレ・バザン研究会では、2021年度の(そして最後の)成果として、『アンドレ・バザン研究』第6号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=堀潤之、伊津野知多、角井誠、2022年3月31日発行、A5判184頁、ISSN 2432-9002)。<b style="color: red;">なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします</b>(【追記】入手方法については<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2022/04/6.html">こちらのエントリー</a>をご覧ください)。</p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjbbnNy2ornZ_LbZVT5LoKZUkV8P1TGLBH64qatHCeCvKkkEG5iFWqCqlUDC2p0djO5sRKQ7I0o7LFSqVsAnq9AYBTytFAjU64IDO9zVWwBWGZOLZBOfBMOs4vx4QNgYcDv_L7wrGmyB13ic7x14Cx7kVxNeUWTGrGaKlvP6BykIX08c_C42Mbpaoc2/s4961/AB06_cover_h1.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="4961" data-original-width="3496" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjbbnNy2ornZ_LbZVT5LoKZUkV8P1TGLBH64qatHCeCvKkkEG5iFWqCqlUDC2p0djO5sRKQ7I0o7LFSqVsAnq9AYBTytFAjU64IDO9zVWwBWGZOLZBOfBMOs4vx4QNgYcDv_L7wrGmyB13ic7x14Cx7kVxNeUWTGrGaKlvP6BykIX08c_C42Mbpaoc2/w452-h640/AB06_cover_h1.jpg" width="452" /></a></div><br /> 本号の目次は以下の通りです(解題は目次には非掲載)。<br /><br /><div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;"><b>[特集]バザンの批評的実践<br /></b>アンドレ・バザン「映画批評のために」(野崎歓゠訳)<br /> 解題「アンドレ・バザンの出発」(野崎)<br />アンドレ・バザン「マルセル・カルネ『陽は昇る』」(角井誠゠訳)<br /> 解題「批評と教育――アンドレ・バザンとシネクラブ運動」(角井)<br />アンドレ・バザン「解放以降のフランスにおけるシネクラブ運動」(須藤健太郎゠訳)<br />アンドレ・バザン「アヴァンギャルドの擁護」(須藤健太郎゠訳)<br /> 解題「〈オブジェクティフ49〉の野心と冒険」(須藤)<br />アンドレ・バザン「フィルモロジーのフィルモロジー序説」(堀潤之゠訳)<br /> 解題「批評と研究――バザンのフィルモロジー批判」(堀)<br />土田環「「アヴァンギャルド」という未知への投企――アンドレ・バザンと映画祭」<br />岡田秀則「《映画博物館》の誕生――パリ、メッシーヌ大通り七番地のアンドレ・バザン」<br />坂本安美「人間の声――アンドレ・バザンから始まる批評的実践」<br /><br /><b>[小特集]バザンと日本映画<br /></b>アンドレ・バザン「日本の教え」(野崎歓゠訳)<br />アンドレ・バザン「『地獄門』」(大久保清朗゠訳)<br /> 解題「アンドレ・バザンによる日本映画受容」(野崎)<br />アンドレ・バザン「『原爆の子』――黙示録への巡礼」(大久保清朗゠訳)<br />アンドレ・バザン「『おかあさん』――日本のネオレアリズモ」(大久保清朗゠訳)<br />アンドレ・バザン「『蟹工船』――日本の「ポチョムキン」」(大久保清朗゠訳)<br />アンドレ・バザン「『狂った果実』――戦後の日本の若者たち」(大久保清朗゠訳)<br /> 解題「バザンと日本の「ネオレアリズモ」――「作家主義」から離れて」(大久保)<br />アンドレ・バザン「『西鶴一代女』」(木下千花゠訳)<br /> 解題「作家の名――「溝口」の発見」(木下)</div><div><br /></div> 巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介を含んでいるので、以下、その全文を掲げておきます。<br /><br /><div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;">「戦闘的バザン」の教え――第六号イントロダクション<br /><div style="text-align: right;"><span style="text-align: left;">堀潤之</span></div><br /> 2016年から足かけ7年にわたって活動してきたアンドレ・バザン研究会の活動の締め括りとして、本号の特集ではバザンが生涯をかけて取り組んだ「批評」という営みそのものを取り上げることにした。<br /><br /> 批評をめぐるバザン自身の文章としては、彼の最後のテクストの一つ「批評に関する考察」(本誌<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/04/2.html">第二号</a>に訳出)がよく知られている。だが、自らが携わる批評という営為を自己反省的に考察する「メタ批評」を、バザンが最初期にも手掛けていたことはそれほど知られていない。特集の冒頭を飾る「映画批評のために」は、本格的な批評をようやく書き始めたばかりの若きバザンがまさにそのような「批評の批評」を試みた意気軒昂な文章である。現下の映画批評の質の低さを嘆き、批評がどうあるべきかを綱領的に示す弱冠25歳のバザンは、自分がこれからどのような批評活動を展開し、それがどのような意義をもつのかをすでに見抜いていたかのようだ。その知的洞察に読者は感嘆を禁じえないだろう。<br /><br /> 先にも触れた晩年の「批評に関する考察」は主として活字による批評を対象としているが、その冒頭付近に「私はシネクラブでの討論も批評の一種と考えている」と記されていたことにも注意を促したい。実際、本特集が詳らかにするように、シネクラブを介して古典や現代の重要作の意義を観客に理解させることは、バザンにとって、文章の執筆と両輪をなす批評行為だった。本特集を「バザンの批評的実践」と銘打ったのは、彼の批評がエクリチュールの生産にとどまらず、観客とじかに接する実践の場にも及んでいたことを強調するためである。<br /><br /> バザンは占領下からさまざまなシネクラブの活動に参与し、重要作の解説に邁進した。その明晰さによって聴衆を魅了したと言われる彼の解説は、具体的にどのようなものだったのか。管見の限り、映像も音声も残されていないその様子は、立ち会ったことのある人々の証言など(その一端は、本特集で坂本安美氏が紹介している)から想像するほかないのだが、ここに掲載した「マルセル・カルネ『陽は昇る』」は、何度も繰り返し行った同作品の解説を口述筆記でまとめたものであり、バザンの肉声が聞こえてくるような文章となっている。とりわけ舞台装置の役割を重視したその作品読解は、具体的な細部に寄り添った啓発的なもので、作品体験を豊かにしてくれる見事な内容だ。<br /><br /> 続く「解放以降のフランスにおけるシネクラブ運動」は、シネクラブの歴史的、教育的な意義を考察した文章で、「メタ批評」のシネクラブ版とも言えよう。自らの実践をつねに一歩引いたところから眺めて検討を怠らないバザンの知的誠実さの現れでもある。そのバザンが、おそらく実践面で最も先鋭的な振る舞いに打って出たのが、伝説的なシネクラブ〈オブジェクティフ49〉の創設であろう。そのマニフェストである「アヴァンギャルドの擁護」を読むと、必要なときには好戦的であることも厭わない「戦闘的バザン」の姿が垣間見えてくるようだ。<br /><br /> その好戦性は、偽名を使って発表された「フィルモロジーのフィルモロジー序説」で頂点に達する。1940年代後半に、ジルベール・コーエン゠セアがソルボンヌを拠点として主導した学術的な映画研究プログラムである「フィルモロジー」は、よほど批評家バザンの腹に据えかねるところがあったに違いない。鋭利に研ぎ澄まされた匕首のようなバザンの筆鋒は、聖人君子の印象が強いこの批評家の別の面を露わにしている。この批判は、バザンが批評の営みに何を賭けていたのかを裏側から明らかにしてくれるだろう。<br /><br /> 本号ではさらに、映画上映・保存の実践に関わりの深いお三方から特別寄稿を頂戴した。土田環氏は山形国際ドキュメンタリー映画祭でギー・ドゥボールを上映した体験を、バザンの〈オブジェクティフ49〉と結びつけて、この批評家のアヴァンギャルド観の大胆な読み直しを図っている。岡田秀則氏は、アンリ・ラングロワ率いるシネマテークが1948年にメッシーヌ大通りに「映画博物館」を設立した瞬間に注目し、その杮落としの展覧会を紹介したバザンの小さな記事の含意を鮮やかに読み解いていく。坂本安美氏は、アンスティチュ・フランセにてシネクラブの伝統を現代的に発展させている自身の経験を踏まえつつ、バザンの「批評的実践」の意義を真っ向から考察する。バザンの精神が坂本氏の実践に谺しているさまに、読者も心を動かされるに違いない。<br /><br /> 小特集は、取りまとめを担当した大久保清朗氏の尽力により、バザンの日本映画論の精髄がくっきりと浮かび上がるものになったのではないかと思う。黒澤明の『羅生門』(1950)の「啓示」をきっかけとしてバザンが精力的に執筆した少なからぬ数の日本映画評は、私たちのよく知る当時の日本映画をプリズムとして、作家の顕揚とは異なるバザンの批評の一面を改めて伝えてくれる。極東のこの国で『アンドレ・バザン研究』を刊行する以上、大久保氏ともども、このテーマは避けて通れないと考えていた。六号にわたる本誌の締め括りとして、ようやくその責を果たせたことを私も嬉しく思っている。<br /></div><br /> 続いて、伊津野知多氏による編集後記の全文です。<br /><br /><div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;"> 「いつの日かきっと、1905年から1917年にかけてのアメリカ映画における喜劇をめぐる800ページの博士論文、ないしそれに類した著作も登場することだろう。それが真面目なことではないなどとだれが主張できるだろうか」(「映画批評のために」)。批評家としてバザンがスタートを切ったとき、映画について真面目な研究書が登場することはまだ希望的な予測でしかなかった。他の諸芸術に比べて著しく歴史の浅い映画にもすでに歴史が存在しているというのに、あたかも歴史などないかのように映画は扱われ、批評言語も成熟していなかったからである。しかし批評家として脂が乗りきっていた彼の前に突如登場した「フィルモロジー」なる学術的な企てに対して、バザンはやっと映画が格上げされたことを喜ぶどころか、厳しく醒めた目を向けた。フィルモロジーが映画の具体的な実存に対する無知を戦略的に露呈することによって、大学人の劣等感を埋め合わせていることに気づいたからである。大学という場で映画研究に携わっている映画学者(フィルモローグ)の末裔かもしれない身に、このバザンの怒りは直接響いた。<br /><br /> だが、当時バザンが発見した見知らぬ映画の産地である遠い極東の地で、バザンその人に捧げられた研究誌が六冊も発行されることまでは彼も予想できなかっただろう。バザン自体が歴史化されたともいえる現在だが、私たちはバザンを過去の遺物とは考えない。むしろ、現在の映画を、映像と観客との関係を、上映活動や映画祭のあり方を考えるための有効な参照点として、あえて言うなら映画論のアヴァンギャルドとして捉えている。そのことを彼に伝えられたらと思う。最終号となる本号では、当時のコンテクストを解き明かしつつバザンを現在へと繋ぐ各解題と、映画上映・保存の実践に携わる方々からの特別寄稿とともに、バザン自身の言葉をたっぷりとお届けする。<br /><br /> 日夜批評的実践に身を投じる中でつかみとられたバザンの理論には、極めて明晰で論理的でありながら、レトリックの効果にとどまらない独特の肌触りがある。バザンにおいて批評という営みと理論的思考は分かちがたく絡み合い、特異な映画論の身体を形作っているのだ。その肌理に迫るべく、これまでの号と同様に翻訳の質の向上に努め、原稿の綿密な確認を行った。編集担当と執筆者の間では校閲コメントで重くなったファイルが幾度もやりとりされ、折よくパリに滞在していた須藤健太郎氏には日本で入手困難な初出誌調査のために何度もBNFに足を運んでいただいた。編集協力の宮田仁氏とデザイン・組版の中村大吾氏の尽力にもどれほど支えられたことか。今回私は編集を担当しただけだが、それでも対面の研究会が開催できない状況下で、文字だけを通してこの上なく充実した研究活動をしているという実感が確かにあった。この厳しくも心地良かった時間を今は名残惜しく思う。<br /><br /> バザンひとりが遺した膨大な言葉の質量に対して、集合知で挑んだ本誌の成果はごくささやかなものかもしれない。だとしても、本誌全六冊を通して『アンドレ・バザン全集』という巨大な岩にアタックするためのいくつかの足がかりは残せたと自負している。 </div><div style="text-align: right;">(J. H)</div><div><br /></div>CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-44624939881330586642021-04-16T09:55:00.000+09:002021-04-16T09:55:00.218+09:00『アンドレ・バザン研究』第5号の入手方法<div style="text-align: left;"> <span style="text-align: justify;"> 『アンドレ・バザン研究』</span><a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2021/03/5.html" style="text-align: justify;">第5号</a><span style="text-align: justify;">は非売品で、国会図書館および一部の大学図書館を除いて、一般に流通しません。</span></div><br style="text-align: justify;" /><div style="text-align: justify;"> 入手を希望される方には、実費(送料分)で送付いたします。<b>任意の封書に①『アンドレ・バザン研究』第5号を希望する旨のメモ、②送付希望先の住所・氏名を記載した<a href="https://www.post.japanpost.jp/service/smartletter/index.html">スマートレター</a>(180円)の2点を封入のうえ、以下の宛先に郵送</b>してください(往信の切手代はご負担ください)。折り返し、封入いただいたスマートレターにて第5号をご送付いたします。</div><div style="text-align: justify;"><br /> ただし、新型コロナウイルスの影響が見通せないことから、<b><span style="color: red;">発送作業は2021年5月以降に順次行う予定</span></b>で、場合によっては一ヶ月程度ずれこむ可能性もあります。遅延しても必ず発送はいたしますので、どうかその旨、ご了承のうえお申し込み下さいますようお願いいたします。</div><br /><div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;"><b>【送付先】</b><br />〒990-8560<br />山形県山形市小白川町1-4-12<br />山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内 アンドレ・バザン研究会</div><br />※スマートレターは全国の郵便局等でお買い求めください。スマートレター以外の方法による送付はいたしかねますので、必ずスマートレターをご用意ください。<br /><br />※現在、頒布が可能なバックナンバーは、<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2019/03/3.html">第3号</a>、<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2020/03/4.html">第4号</a>のみとなっています。この<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2021/04/2.html">エントリー</a>に記載のとおり、<b><span style="color: red;">『アンドレ・バザン研究』第1号および第2号の頒布は終了しております</span></b>ので、ご留意ください。<div><br /></div><div>※バックナンバーの入手を希望される場合は、<b><span style="color: red;">必ずご希望の号を明記のうえ、</span></b>送付希望先の住所・氏名を記載した<b><span style="color: red;">冊数分のスマートレターを封入</span></b>して下さい(万が一ご希望の号が不明な場合は、より新しい号を発送させていただきます)。厚さの関係で、複数の号を一つのスマートレターに同梱することはできかねますので、ご留意下さい。<br /><br />※残部僅少となった場合、このブログでも告知し、受付を中止します。<br /><div style="text-align: right;">以上</div></div>CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-40064186784423874232021-04-16T09:48:00.001+09:002021-04-16T09:48:41.704+09:00『アンドレ・バザン研究』第2号 頒布終了のお知らせ<div style="text-align: left;"> <a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2017/11/1.html">このエントリー</a>に記載のとおりすでに頒布終了している『アンドレ・バザン研究』<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2017/05/1.html">第1号</a>に加えて、<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/04/2.html">第2号</a>も好評につき残部がほぼ尽きましたので、本日をもって頒布を終了いたします。今後、増刷の予定もありません。</div><br /> 閲覧にあたっては、お手数ですが、国会図書館(<a href="http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I028037402-00">こちら</a>を参照)や、大学図書館(<a href="https://ci.nii.ac.jp/ncid/AA12816167">こちら</a>を参照)をご利用いただければ幸いです。<br /><br />CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-87795273398219730282021-03-31T12:25:00.002+09:002021-04-02T22:43:18.176+09:00『アンドレ・バザン研究』第5号の刊行<p> アンドレ・バザン研究会では、2020年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第5号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=角井誠、堀潤之、伊津野知多、2021年3月31日発行、A5判140頁、ISSN 2432-9002)。<b style="color: red;">なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします</b>。</p><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjCU-3iRWVfw-QMEu5jxBfbE-84aAko2EXXQiLELp5eOlF07nhWfsZlveOWltP1cVyjMUVDrXy-oWBtjSEQI_D0FZx1NOCa6hz8HC6ec4Ftah1URHhBVbaXCtRwwXYFkkjxGigfQu_7wtE/s2048/AB05_cover_h1.jpg" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="2048" data-original-width="1443" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjCU-3iRWVfw-QMEu5jxBfbE-84aAko2EXXQiLELp5eOlF07nhWfsZlveOWltP1cVyjMUVDrXy-oWBtjSEQI_D0FZx1NOCa6hz8HC6ec4Ftah1URHhBVbaXCtRwwXYFkkjxGigfQu_7wtE/w450-h640/AB05_cover_h1.jpg" width="450" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;"><br /></td></tr></tbody></table><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><br /> 本号の目次は以下の通りです。<br /><br /><div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;"><b>[特集]不純なバザンのために<br /></b>角井誠「リアリズムから遠く離れて――アンドレ・バザンのアニメーション論」<br />アンドレ・バザン「アニメーション映画は生き返る」(角井誠゠訳)<br />アンドレ・バザン「倫理的リズムあるいは九去法」(角井誠゠訳)<br />アンドレ・バザン「ペリの危機」(角井誠゠訳)<br />伊津野知多「不純な存在への賭け――バザンとテレビ」[解題]<br />アンドレ・バザン「永遠についてのルポルタージュ――『ロダン美術館訪問』」(伊津野知多゠訳)<br />アンドレ・バザン「映画館よりテレビ向きの映画もある」(伊津野知多゠訳)<br />アンドレ・バザン「テレビの美学的な未来――テレビは最も人間的な機械芸術だ」(伊津野知多゠訳)<br />アンドレ・バザン「テレビ、誠実さ、自由」(伊津野知多゠訳)<br />細馬宏通「3D映画のミザンセヌ――『ダイヤルMを廻せ!』を捉え直す」[研究ノート]<br />三浦哲哉「魂の現実性とは何か――翻案、預言、反復」[研究ノート]<br /><br /><b> [小特集]バザンの収容所映画論<br /></b>堀潤之「リアリズムの臨界――バザンと収容所映画」[解題]<br />アンドレ・バザン「『最後の宿営地』」(堀潤之゠訳)<br />アンドレ・バザン「収容所的ゲットー――『長い旅路』」(堀潤之゠訳)<br />アンドレ・バザン「『夜と霧』」(堀潤之゠訳) </div><br /> 巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介を含んでいるので、以下、その全文を掲げておきます。<br /><br /><div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;">映像の「実存」――第五号イントロダクション<br /><div style="text-align: right;"><span style="text-align: left;">角井誠</span></div><br /> 「不純な映画のために――脚色の擁護」(1952)のなかでバザンは、サルトルの「実存は本質に先立つ」という文句を踏まえて次のように書く。「映画に関して、実存はその本質に先立つといわなければなるまい。批評家は映画の実存から出発すべきなのだ――それに大胆きわまる拡大解釈を加えようとする場合でも」(『映画とは何か(上)』岩波文庫、2015年、168頁)。映画を何らかの「本質」によって規定する本質主義と訣別し、移りゆく映画の「実存」に寄り添おうとする批評家バザンの姿勢が鮮明に打ち出されたこの一節には、ずっと心惹かれるものがあった。<br /><br /> もちろん、バザンにも本質主義的な側面はある。写真映像の特性を起点にリアリズムの美学を語るバザンは、ときに本質主義に限りなく接近する。本誌<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/04/2.html">第二号</a>掲載の最初期の論考「リアリズムについて」などがその最たる例だろう。他方で、バザンは、文学や演劇の脚色の増加という現象を前に、それを本質主義のもとに断罪するのでなく、「不純な映画」として擁護した。バザンが論じた「映画の実存」は、脚色映画ばかりではない。1950年代には、テレビが普及し、それに伴って映画も変容を被った(シネラマやシネマスコープなどの大型スクリーン、3D映画の登場など)。バザンが、そうした変容にもしかるべき批評的関心を寄せていたことはこれまでも知られてきた。<br /><br /> そして2018年のバザン<a href="http://www.editionsmacula.com/livre/119.html">全集</a>刊行は、映像の「実存」に対するバザンの関心のさらなる広がりを明らかにしてくれた。二巻本でほぼ三千頁の全集には、三千篇近いテクストが並ぶ。長文の論考で理論的な思索を深める一方で、バザンは時評家としてテレビも含む膨大な作品を取り上げていった。日刊紙『ル・パリジャン・リベレ』に書かれた時評だけでもおよそ千四百篇と全集の約半数を占める。「映画の実存から出発すべき」という言葉は決してはったりではなかったのである。本号では、(実写の)映画ばかりでなく、多種多様な映像の「実存」と向き合うバザンを「不純なバザン」と名付けて特集タイトルに掲げた。バザン自身の用法では、「不純な映画」は、映画と他の諸芸術の関係にのみ関わるものであるが、ここでは「不純」の語をやや広義にとらえた。<br /><br /> まず、拙論とともに、バザンのアニメーション論の翻訳を掲載する。バザンがアニメーションについても時評や批評を書いていたことはあまり知られていない。『全集』の頁を繰るうち、ふと目に止まったアニメーションについての時評に興味をそそられて、アニメーション論を体系的に読む作業を行った。拙論は、同時代の文脈を踏まえ、バザンのアニメーション論を辿るものとなっている。ディズニーに対するアンビヴァレントな関係や、反ディズニー的な「アニメーション映画」への関心は、バザンの映画論を考えるうえで新たな視座を与えてくれるのではないかと思う。また、CGの導入に伴って実写とアニメーションの境界が揺らぐ現在、「カートゥーン・フレンドリー」なバザンに光を当てることにも少なからぬ意義があると信じたい。<br /><br /> 続いて、伊津野知多氏による解題とともに、バザンのテレビ論をお届けする。先行研究を紹介しつつ、バザンのテレビ論の主要なモチーフを浮かび上がらせる伊津野氏の解題は、きわめて有用なイントロダクションとなっている。そこでは、対象を映画からテレビに変えつつも、メディウム固有の美学や心理学、「不純なテレビ」の可能性を探るバザンの姿が精緻に描き出される。新たなメディアと向き合うバザンの果敢な思索は、変化するメディア状況の中にいるわれわれにも示唆を与えてくれるに違いない。
細馬宏通氏による寄稿は、バザンの3D映画論を起点に、彼自身は見ることのできなかった『ダイヤルMを廻せ!』(1954)の3D版を分析することで、3D映画に固有の演出に迫ろうとする刺激的な論考である。「ゼロ平面」や「ゴースティング」などの概念を発明しつつ、3D映画の美学的可能性を描き出すその見事な手つきは、バザンのそれを彷彿とさせさえする。<br /><br /> 三浦哲哉氏の研究ノートは、バザンの「『田舎司祭の日記』とロベール・ブレッソンの文体論」を再読するもので、語の本来の意味での「不純な映画」に関わる。しかし三浦氏は、「魂」や「預言」の語に着目し、バザンの議論の根底で作動するカトリシズム特有のイメージ論を炙り出すことで、バザンの映画論を大胆に読み直してみせる。<br /><br /> 小特集「バザンの収容所映画論」では、堀潤之氏による解題とともに、強制収容所をめぐるバザンの映画評の翻訳をお送りする。バザンのリアリズム論が、写真映像の特性ばかりでなく、強制収容所など「現実世界をめぐる状況論」にも由来するという堀氏の鋭利な指摘にあるように、これらのテクストは、特集とはまた別の角度から、バザンの本質主義、リアリズムを問い直すものであるだろう。<br /><br /> 全体として、本号では比較的知られていないバザンの顔に光を当てることとなった。バザンの批評は広大である。そこにはまだ、われわれの知らないバザンが眠っている。</div><br /> 続いて、堀潤之による編集後記の全文です。<br /><br /><div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;"> 前号のイントロダクション「『バザン全集』からの再出発」で、私は2018年末に刊行された全集がもたらした衝撃について語り、「今後の本研究会は、『全集』をバイアスなしに読み込む作業を積み重ねつつ、再び何らかの意味的なまとまり――願わくば未聞の――を見出してゆかねばならないだろう」と述べた。本号の特集「不純なバザンのために」で取り上げたアニメーション論とテレビ論という二つの「まとまり」は、まさに『全集』が可能にした綿密な読解作業を礎に成り立っている。<br /><br /> なるほど、いずれのトピックも「未聞」とまでは言えないかもしれない。野崎歓氏もエルヴェ・ジュベール゠ローランサン氏も、バザンとアニメーションという一見したところ相容れない組み合わせに早くから注目していたし、テレビ論に関しては、とりわけダドリー・アンドルー氏が編纂した『<a href="https://www.ucpress.edu/book/9780520283572/andre-bazins-new-media">アンドレ・バザンのニューメディア</a>』(2014)に英訳がまとめて収録されて以降、その存在が広く知られ、様々な観点からの研究が活発になされているからだ。とはいえ、バザンの数多あるアニメーション論およびテレビ論を渉猟し、そのエッセンスを論考ないし解題で独自の観点から浮き彫りにし、幾つかのキーテクストを訳出した角井誠氏と伊津野知多氏の貢献は決して小さなものではないだろう(なお、これまでの号と同様、論考については厳正な査読を行い、翻訳もすべて綿密なピアチェックを経ていることを付言しておく)。特集には、バザンを一つの契機として3D映画論という未踏の領域に切り込まんとする細馬宏通氏と、バザンのよく知られた脚色映画論を搦め手から見事に読解する三浦哲哉氏の研究ノートがさらなる彩りを添えてくれた。<br /><br /> 小特集「バザンの収容所映画論」でも、バザンの相対的に知られざる三篇の映画評を繋ぎ合わせることで、ごく小規模なものとはいえ、私なりに「未聞のまとまり」を見出そうとした。これが単なるマイナーな記事の発掘にとどまるものではなく、戦時下のユダヤ人大虐殺の表象をめぐる「ランズマン以前」の議論の地平を見据えるための作業であることが、解題によって詳らかになっていることを願うばかりである。<br /><br /> 今回、バザンが日刊紙『ル・パリジャン・リベレ』に寄せた一四〇〇本近くの掌篇のうちの二篇を、本誌で初めて訳出できたのも嬉しいことだ。バザンがその決して長くない批評家としてのキャリア全体を通じて、ほぼ三、四日に一篇のペースで書き続けた短いながらも鋭利な評には、しばしば後に別の媒体で発展していく論点が凝縮されていることも多く、従来アクセスが困難だったこれらのカプセル・レビューを一種の「映画日誌(シネ・ジュルナル)」として読み進めることは、『全集』が著しく容易にしてくれた大きな楽しみの一つなのである。巻頭言で角井氏も言うように「映画の実存」を克明に記録したこれら一連の時評は、通読すれば、バザンという強靱な知性のプリズムを通じた、1945年から58年までのフランス映像文化をめぐる第一級のクロニクルとしての姿を現すはずである。<br /><br /> 次年度は本研究会が助成を受けている科研費の最終年度に当たる。本誌も次号をもって完結することになるだろう。最終号にふさわしい内容とするべく鋭意努力したい。 </div><div style="text-align: right;">(J. H)</div><br />CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-76201269671618752082020-04-09T23:31:00.000+09:002020-04-09T23:31:51.671+09:00『アンドレ・バザン研究』第4号の入手方法<div style="text-align: justify;">
『アンドレ・バザン研究』<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2020/03/4.html">第4号</a>は非売品で、国会図書館および一部の大学図書館を除いて、一般に流通しません。</div>
<div style="text-align: justify;">
<br /></div>
<div style="text-align: justify;">
入手を希望される方には、実費(送料分)で送付いたします。<b>任意の封書に①『アンドレ・バザン研究』第4号を希望する旨のメモ、②送付希望先の住所・氏名を記載した<a href="https://www.post.japanpost.jp/service/smartletter/index.html">スマートレター</a>(180円)の2点を封入のうえ、以下の宛先に郵送</b>してください(往信の切手代はご負担ください)。折り返し、封入いただいたスマートレターにて第4号をご送付いたします。<br />
<br />
ただし、新型コロナウイルスの影響で当面、通常の業務体制が整わないことから、<b><span style="color: red;">発送作業は2020年5月7日以降に順次行う予定</span></b>です。どうかその旨、ご了承のうえお申し込み下さいますようお願いいたします。</div>
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid #ccc; padding: 10px;">
<b>【送付先】</b><br />
〒990-8560<br />
山形県山形市小白川町1-4-12<br />
山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内 アンドレ・バザン研究会</div>
<br />
※スマートレターは全国の郵便局等でお買い求めください。スマートレター以外の方法による送付はいたしかねますので、必ずスマートレターをご用意ください。<br />
<br />
※発送作業は研究所の所員が行うため、出張などにより発送まで10日間程度の期間をいただくこともあります。また、授業期間外の場合、発送まで大幅に時間がかかることもあります。どうかご了承ください。<br />
<br />
※この<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.jp/2017/11/1.html">エントリー</a>に記載のとおり、<b><span style="color: red;">『アンドレ・バザン研究』第1号の頒布は終了しております</span></b>ので、ご留意ください。<br />
<br />
※<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/04/2.html">第2号</a>、<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2019/03/3.html">第3号</a>はまだ残部があります。あわせてバックナンバーの入手を希望される場合は、<b><span style="color: red;">必ずご希望の号を明記のうえ、</span></b>送付希望先の住所・氏名を記載した<b><span style="color: red;">冊数分のスマートレターを封入</span></b>して下さい(万が一ご希望の号が不明な場合は、より新しい号を発送させていただきます)。厚さの関係で、複数の号を一つのスマートレターに同梱することはできかねますので、ご留意下さい。<br />
<br />
※残部僅少となった場合、このブログでも告知し、受付を中止します。<br />
<div style="text-align: right;">
以上</div>
CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-59514501654995759222020-03-31T11:32:00.000+09:002020-03-31T11:32:07.578+09:00『アンドレ・バザン研究』第4号の刊行 2016年6月に<a href="https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/laboratory/picture/">山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所</a>内に発足したアンドレ・バザン研究会では、その2019年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第4号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=堀潤之、伊津野知多、角井誠、2020年3月31日発行、A5判116頁、ISSN 2432-9002)。<b style="color: red;">なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします</b>。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgIG9lM_Si0NhZuYT64iAy_XGaVVhQGxrgH8b7bVaczC62_S-9axVPXilPS2juiF5ghFKITrl0RO86t96afH1pEKViRSc7t7tWnxkLgzRUy-yxRK9dXtSfX-DZCWzjEGnaoVeSxF5v9Tok/s1600/AB04_cover_h1.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1128" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgIG9lM_Si0NhZuYT64iAy_XGaVVhQGxrgH8b7bVaczC62_S-9axVPXilPS2juiF5ghFKITrl0RO86t96afH1pEKViRSc7t7tWnxkLgzRUy-yxRK9dXtSfX-DZCWzjEGnaoVeSxF5v9Tok/s640/AB04_cover_h1.jpg" width="450" /></a></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<br />
本号の目次は以下の通りです。<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;">
角井誠「存在の刻印、魂の痕跡――アンドレ・バザンの(反)演技論」<br />
ダドリー・アンドルー「バルト、バザン、エクリチュール」(伊津野知多゠訳)<br />
アンドレ・バザン「『希望』あるいは映画におけるスタイルについて」(堀潤之゠訳)<br />
アンドレ・バザン「スクリーン上の死」(角井誠゠訳)<br />
アンドレ・バザン「報道か屍肉食か」(角井誠゠訳)<br />
谷昌親「死骸的現存としてのイメージ――映画『闘牛』をめぐるバザンとレリスの交錯」</div>
<br />
巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介を含んでいるので、以下、その全文を掲げておきます。<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;">
『バザン全集』からの再出発――第四号イントロダクション<br />
<div style="text-align: right;">
堀潤之</div>
<br />
バザンが生誕100周年を迎えた2018年も暮近く、本研究会の界隈は、ついに刊行された浩瀚なバザン全集(André Bazin, <i><a href="http://www.editionsmacula.com/livre/119.html">Écrits complets</a></i>, édition établie par Hervé Joubert-Laurencin, Éditions Macula, 2018)の話題で持ちきりだった。日本学術振興会外国人研究者招へい事業の助成で来日していたダドリー・アンドルー氏の講演を軸にしたイベントを12月16日と20日に東京と山形で開催した際にも、コーヒーブレークにはとかく、三千頁のうちにおよそ2700篇の記事がぎっしり詰まった二巻本によってもたらされた衝撃が口の端に上った。私たちはすでに、バザンがその短い生涯で書いた文章が、『映画とは何か』全四巻を筆頭とする十数冊の単行本に収められた分量のおよそ十倍に及んでいることを知っていたし、まさにアンドルー氏その人の尽力で公開されたオンラインの書誌データベース(<a href="https://bazin.yale.edu/">https://bazin.yale.edu/</a>)を活用して、書庫に潜っては単行本未収録の記事を繙読していた(その成果の一端は、本誌でこれまで披露してきたとおりである)。しかし、こうしてバザンの全記事が、編者エルヴェ・ジュベール゠ローランサンによる周到な校訂を経て、有用きわまりない解説文と無数の活用法を見出しうる五種類の索引とともに重厚な物質的な塊として送り届けられると、私たちの知るバザンがやはり氷山の一角でしかなかったことが明白な事実として実感されたのである。<br />
<br />
しかも『全集』は、24の区切りに沿って、全記事をひたすら時系列順に並べている。この単純な仕掛けによって、私たちは一般的に流布しているバザンのさまざまな問題設定――作家主義、リアリズム、映画と他の諸芸術、映画の社会学、等々――をいったん括弧に入れて、徒手空拳でテクストに向き合うように迫られる。バザン自身がある程度まで構想したはずの『映画とは何か』四巻の構成という括りすらいったん解体するこの『全集』という装置は、そのささやかな偶像破壊的身振りによって、先入観なしにバザンを読むことへと読者を改めて誘っているのだ。<br />
<br />
本号に収められているのは、各執筆者がおそらくはその誘いにも乗って、それぞれの仕方で、新しいバザン読解を模索した試みの成果である。巻頭を飾る角井誠氏の「存在の刻印、魂の痕跡――アンドレ・バザンの(反)演技論」は、<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/11/100.html">生誕100周年記念イベント</a>(東京)での発表から生まれたもので、俳優論・演技論という新しい切り口からバザンのテクストを再読している。バザンの存在論的リアリズムが俳優を対象に据えたときに何が起こるのか、それは俳優をスターの「神話」から読み解くバザンのよく知られたアプローチとどう異なるのか、こうした新たな問いの数々はこれまでとは違った角度からバザンを捉える可能性を切り拓いているように思われる。<br />
<br />
続くアンドルー氏の「バルト、バザン、エクリチュール」は<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/11/100.html">生誕100周年記念イベント</a>(山形)の講演に端を発するもので、<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2019/03/3.html">前号</a>に掲載した氏の論考「この残酷な世界へのバザンのインテグラルな視座」に続いて、英語での公刊に先立って最新の成果をここに訳載することができたのは大変悦ばしいことだ。元々は「映画とアダプテーション」という枠組みでの講演だったが、バザン研究では馴染み深い「脚色」の問題系をはるかに超えて、アンドルー氏は、相対的に知られていないものを含むバザンの多数のテクストを軽やかに渉猟しながら、それらとバルトの「エクリチュール」概念との共鳴を探っている。<br />
<br />
バザンを同時代の知的コンテクストへと開いていくという構えは、特別寄稿をいただいた谷昌親氏による「死骸的現存としてのイメージ――映画『闘牛』をめぐるバザンとレリスの交錯」にも共通する。2018年11月に山形大学で<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/10/100.html">生誕100周年プレイベント「バザン、レリス、闘牛」</a>を開催した際に、大久保清朗氏による日本語字幕付きで初上映されたピエール・ブロンベルジェのドキュメンタリー映画『闘牛』<i>La Course de taureaux</i>(1951)の解説をしていただいたことをきっかけに生まれたこの論考では、バザン、レリス、さらにはブランショのありえたかもしれない接点がスリリングに探られ、バザンの映像論を、文学と哲学の領域におけるより広範なイメージ論の文脈へと接ぎ木している。なお、谷氏の論考が、それに先立つ二篇のバザンの記事(これまで未邦訳だった「スクリーン上の死」、「報道か屍肉食か」)とともに、「死の表象」をめぐるセクションをゆるやかに形作っていることも付け加えておこう。<br />
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本号ではもう一篇、バザン最初期の未邦訳のテクスト「『希望』あるいは映画におけるスタイルについて」を訳出した。ここで扱われているアンドレ・マルローの唯一の映画には、私自身、並々ならぬ興味を抱いていた。野崎歓氏がかつて記したように(「アンドレ・マルローの聖別」、<a href="https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-Ib00006372690-00">『ユリイカ』1997年4月号</a>)、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちはたびたびマルローに言及していたし、その後、ゴダールも『映画史』(1988-98)でこの映画を引用し、ストローブもまた『共産主義者たち』(2014)と『水槽と国民』(2015)でマルローの「脚色」を手がけているからだ。加えて、バザンその人が徒手空拳で映画に向き合う始まりの場にも関心があった。実際、本論考は単なる作品論を超えて、小説の文彩(省略や直喩)と比較したときの映画の表現の可能性と限界を掘り下げた、まことに気宇壮大な考察となっている。同じく1945年に発表された「写真映像の存在論」が提示する映画の根本的な特質とはまったく異なる映画の特質が、ここで捉えられているのだ。バザンの探究は、映像の存在論だけでなく、映像の修辞学にも、もう一つの軸足を置いて開始されたのではないか、と考えたくなる所以である。<br />
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本号を貫いているのは、こうして既知のバザン像をあえて遠ざけて、いわば初心にかえってバザンを読むという態度である。今後の本研究会は、『全集』をバイアスなしに読み込む作業を積み重ねつつ、再び何らかの意味的なまとまり――願わくば未聞の――を見出してゆかねばならないだろう。</div>
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続いて、伊津野知多氏による編集後記の全文です。<br />
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<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;">
第四号は前号に引き続き、本研究会が2018年に東京と山形で三度にわたって開催したバザン生誕100周年記念関連イベントで提起された問いを発展させたものとなった。バザン的な映像の存在論に対しては、ブランショの「死骸的現存」という概念を通して光を当てる谷昌親氏の特別寄稿と、演技論という切り口から迫る角井誠氏の精緻な論考を、またもうひとつの大きなテーマである映画言語や文体論、脚色に対しては、ダドリー・アンドルー氏による「エクリチュール」という観点からの特別寄稿を掲載することができた。またバザンの未邦訳文献としては、映画的表象の臨界点ともいえる「死」をめぐる小論二篇と、その後のバザンの問題系が凝縮して現れているような初期の批評一篇の翻訳を、読み応えのある解題とともにお届けする。レリス、ブランショ、バルト、マルローなど、同時代の言説を通して歴史的・社会的な文脈のなかでバザンを捉え直すという視点も本号の執筆者に共通するものだが、直接的な交流ではなく、あくまで書物や作品というテクストを通じた想像的な出会いのなかにバザンと彼らの関係が探られている。そこにはバザンの核心に関わる思いがけない発見があった。<br />
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バザンは存在を死によって、映画を小説(や他の諸芸術)によって、演技を反演技によって語る。こうした態度はある意味で一貫しているが、逆説の中にこそバザンの理論的想像力があり、新しい何かに答えを与えるために設定された仕掛けだったのではないかと感じる。映画の進化や「アヴァンギャルド」にこだわり、映画はまだ発明されていないとさえ言うバザンが求めていただろうその何かを、私たちは彼の文章の細部から再構築していきたいと思う。論考については厳正な査読を行い、翻訳については綿密に相互チェックすることで、できる限り精確な言葉でそれを読者に届けられるよう努めた。<br />
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2018年に刊行された『バザン全集』とともにバザン研究の新局面を迎えた2019年、私たちはこれまでとはちがった形でバザンに向き合うようになった。情報収集という面で利便性が向上したのはもちろんだが、それにとどまらない衝撃があったことは堀潤之氏の巻頭言にある通りである。この突如として全貌を現した未踏の大地には、想像していた以上に刺激が満ちている。その細部に眼をとめて存分に観察するばかりでなく、積み重なった地層や、場所ごとの植生の違いを調べて、彼の思想の変化や年を経ても変わらない根のようなものを探っていくこともできるだろう。思えばバザンと私たちは既に出会い損ねており、ただテクストを通して向き合うほかない。しかしだからこそ、ひとつひとつの文章のなかに彼の存在の痕跡を探すのだ。本研究会員もそれぞれの関心によってさまざまなルートから探索を開始している。今回の編集作業を通して、執筆者や研究会メンバーたちと探索を共にできたことはとても貴重な体験だった。遭難しかけたところを救われたことも多く、感謝するとともに足腰を鍛えておくことの必要性を感じている。これから一気に加速しそうなバザン研究のベースキャンプのひとつとして、今後も本研究会が機能できればうれしい。 </div>
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(J.H.)</div>
CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-24277216480081454942019-04-15T09:21:00.000+09:002019-04-15T16:00:01.109+09:00【寄稿】バザン生誕100周年記念イベント パート1報告<h3>映画体験に差し込む「光」</h3>
<h4>——バザン生誕100周年記念イベント「21世紀のアンドレ・バザンに向けて」を振り返って</h4>
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原田麻衣</div>
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<h4>バザンの映画論を取り巻く状況</h4>
2018年12月16日、<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/11/100.html">アンドレ・バザン生誕100周年記念イベント</a>の第一部が東京大学で開催された。バザン研究の第一人者であるダドリー・アンドルー氏の基調講演に始まり、「バザンのアクチュアリティ」をテーマとした野崎歓氏、濱口竜介監督、三浦哲哉氏のラウンドテーブル、「バザン研究の現在」として堀潤之氏、角井誠氏、伊津野知多氏の研究発表が行われたこの6時間にわたるイベントは、まさしく「21世紀のアンドレ・バザンに向けて」という題が示すように、バザンの今日的意義を緻密に描き出すものであった。<br />
個々の内容を紹介する前にまず、バザンの映画論——とりわけリアリズム論——をめぐる学術的な議論について簡単に触れておきたい。ピーター・ウォーレンのバザン解釈以降、「写真とはモデルそのものなのだ」<a href="#fn1" name="top1"><sup>*1</sup></a>と主張するバザンのリアリズム論はしばしば、「インデックス」、つまり、記号とその対象が物理的に結びつくような「指標記号」の概念から捉えられてきた<a href="#fn2" name="top2"><sup>*2</sup></a>。しかしバザンのリアリズム論を記号論の枠組みに閉じ込めるのは困難なようである。例えばノエル・キャロルが言うように、リアリズムの問題を写真映像のインデックス性に還元する見方は、映画の「フィクション性」を見落とすことになりかねない。『M』(フリッツ・ラング、1931年)は主人公を演じたピーター・ローレの表象ではないし、クリスチャン・ディオールの広告に登場するキャラクターが劇作家アンドルー・グレゴリーをモデルにしているからといって、その広告が彼の表象というわけではないのである<a href="#fn3" name="top3"><sup>*3</sup></a>。そこで、近年ダニエル・モーガンをはじめとする論者は、バザンのリアリズム論を「インデックス」の観点から捉えることに疑義を呈している<a href="#fn4" name="top4"><sup>*4</sup></a>。同様の立場から、バザンの主張するリアリズムの構造を鮮やかに図式化した伊津野氏の論考「アンドレ・バザンのリアリズム概念の多層性」<a href="#fn5" name="top5"><sup>*5</sup></a>には注目すべきである。そこで示されているのは、バザンによるリアリズム概念が、「存在論的リアリズム」、「美学的リアリズム」、「心理的リアリズム」の三層から成り立っているということである。「存在論的リアリズム」とは「映画が現実を記録する能力を指す」(113)。そこで問題となるのは、「人間化されていないイメージ(超現実)」であり、「精神的なもや」がつきまとう「人間化された現実のイメージ(一般的な意味での現実)」ではない(123)。そして「映像の「記録」の力を最大限に生かすような映画的「表現」」形式が「美学的リアリズム」である(131)。そのような「美学的リアリズム」によって観客は、「精神的なもや」のかかっていないイメージと対峙し、「知覚の真の条件の中に置き直」され、「日常的な人間の知覚の条件を反射的に意識」するようになる。そうした「現実との関係を再構築するよう私たちを誘う知覚の教育学」が「心理的リアリズム」である(129)。伊津野氏が提示したこの見方は、インデックス性を超えてバザンのリアリズム論を把握することの必要性を強調すると同時に、これまで二分されることの多かったバザンにおける存在論と美学の問題を一体のものとして捉えている点で重要である。そして本イベントで展開されたそれぞれの議論は、こうしたバザン再評価の流れを汲むもので、とりわけ、バザンのリアリズム論の基盤には「存在論的リアリズム」があり、それを前提とした「美学的リアリズム」が機能しているという上に見たような見取り図が共通認識として存在していたといえるだろう。<br />
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<h4>ポストヒューマン的バザン</h4>
<table cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="float: right; margin-left: 1em; text-align: right;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjA55p076CgvQe6gJBfLr_yOn14d3G53ERvZOELkaw4cm2G2HlFW8UpJzMWPeiYGp8YBPSExsQdSMXj1BmdD5Qh3LyynK7wQ80qYBeoqRJqH_ZezQVfCzNWbz3w95Hc-uABrwGMosPooGQ/s1600/andrew.jpg" imageanchor="1" style="clear: right; margin-bottom: 1em; margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="1329" data-original-width="1600" height="331" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjA55p076CgvQe6gJBfLr_yOn14d3G53ERvZOELkaw4cm2G2HlFW8UpJzMWPeiYGp8YBPSExsQdSMXj1BmdD5Qh3LyynK7wQ80qYBeoqRJqH_ZezQVfCzNWbz3w95Hc-uABrwGMosPooGQ/s400/andrew.jpg" width="400" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">左よりアンドルー氏、野崎氏(総合司会)、木下千花氏(通訳)</td></tr>
</tbody></table>
アンドルー氏の講演「この残酷な世界をめぐるバザンの統合的パースペクティヴ」(その後、講演に基づく論考が<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2019/03/3.html">『アンドレ・バザン研究』3号</a>に掲載された)は、「量塊(ヴォリューム)」そして「統合=積分的(インテグラル)」という二つのキーワードを軸にバザンによる論考を空間の問題として考察するものであった。アンドルー氏がまず強調したのは、映画芸術に対するバザンの確信である。バザンは映画について、一貫した形式的な選択を通して統合=積分することで全体の近似値が得られるような現実を描写/図示しうるものと考えていた。つまり、キャメラは人間の知覚を超えた世界/空間のなかを自在に動き、映画はそこに存在する「時空間のかたまり」を提示しているということだ。では「時空間のかたまり」の提示とは具体的にどのようなことを指すのだろうか。それは「美学的リアリズム」の問題にかかわってくる。アンドルー氏が着目したのは「換喩(メトニミー)」や「緩叙法(リトート)」に相当する技法であった。「換喩」とは、ある事物を表すのにそれと深い関係のある事物で置き換える修辞法であり、「緩叙法」とは控えめな表現によってより効果を強める修辞法である。こうした表現はバザンが擁護した映画作品に共通するという。例えば、オーソン・ウェルズ『偉大なるアンバーソン家の人々』(1942)では後景に見えるドアからの人物の退場がアンバーソン家の衰退を示唆しており、ロベルト・ロッセリーニ『戦火のかなた』(1946)ではピエタを彷彿とさせる構図で捉えられた男女——とりわけ、まさに死を迎えようとしている男性から自分の恋人が亡くなったことを告げられる女性の顔——がファシズムに対する勝利や都市の再統一を間接的に表している。つまりこれらの作品において、ある「時空間のかたまり」は、それを超えて存在しうるさらに大きな世界/全体を示しているのである。このようないわば人間の知覚を超えた世界の提示は、非人間的な視点が用意されることでも達成される。その好例が「動物の視点」だという。講演中に挙げられた多彩な例から少し取りあげてみると、例えばジャン・ルノワール『ゲームの規則』(1939)では狩りの帰り双眼鏡を覗いた先に浮気現場の見える有名なシーンがあるが、その少し前に観客は何度かこちらを向くリスと対峙する。このときわれわれは、道徳的な人間の世界を問い直すような「残酷」な視線に貫かれることになる。同様のことはタル・ベーラ『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(2000)における死んだクジラの目や、さらにはアッバス・キアロスタミ『10 on Ten』(2004)におけるアリの穴についてもいえるとアンドルー氏は指摘した。<br />
バザンの映画論がポストヒューマンの視座から見直されたこの講演では、「統合=積分的なリアリズム」という概念をもってまさに「バザンの統合的パースペクティヴ」が描出された。バザンの多用した動物や地質学、幾何学にかかわるメタファーの内実を探りつつ、彼の評価した作品が、そしてその延長線上で21世紀の作品までもが「統合=積分的なリアリズム」の観点から読み解かれた点にも注目すべきである。<br />
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<h4>「メトニミー」とカタストロフ</h4>
<table cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="float: right; margin-left: 1em; text-align: right;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEihrAP5-AS0uDOFAtoaXpTFPGNZhvZcbDW8hFHdjjym6jbdpF1Jy_bKYUc4TCaDypEWedyJPm-POadFx42ogcnhb7E6ULxH8rDPl-ik9TbFgkshHfUXgeNZ271DZhiGZ1QzlHuG4VszrAU/s1600/panel1.jpg" imageanchor="1" style="clear: right; margin-bottom: 1em; margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="894" data-original-width="1600" height="222" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEihrAP5-AS0uDOFAtoaXpTFPGNZhvZcbDW8hFHdjjym6jbdpF1Jy_bKYUc4TCaDypEWedyJPm-POadFx42ogcnhb7E6ULxH8rDPl-ik9TbFgkshHfUXgeNZ271DZhiGZ1QzlHuG4VszrAU/s400/panel1.jpg" width="400" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">左より三浦氏、濱口氏、藤原敏史氏(通訳)、アンドルー氏、野崎氏</td></tr>
</tbody></table>
三浦氏、濱口監督、角井氏の発表は、おおよそ「存在論的リアリズム」を前提とした「美学的リアリズム」の諸相に主眼がおかれたものだといえよう。三浦氏の発表では、アンドリュー氏の講演を受けて「メトニミー」の問題が深く掘り下げられた。今日の映画において「メトニミー」が有効となっている具体的な題材として提示されたのは「カタストロフ」である。例えば、オニムバス作品『11’09”01/セプテンバー11』(2002)でショーン・ペンが手掛けた短編において、ワールド・トレード・センターの崩壊は、これまで部屋を覆っていた影がみるみる消えてゆき、同時に光が差し込んでくるショットで示される。このショットを含むシーンについて補足的に説明しておくと、そこでは同時に、家族を失い薄暗い自分だけの空間に閉じこもっていた老人が、突如差し込んできた光を浴びて美しく蘇った花に感動するも、それを見せる相手がいないことから孤独を直視する様子が描かれている。それゆえ映画全体のトーンはかなり感傷的であるが、ビル崩壊のショットだけは異なるという。この例をもって三浦氏が明らかにしたメトニミーの意義はおおよそ次の二点に要約されるだろう。まず、メトニミーはショットにおける「想像の対象となる空間」と「現実に存在して発見の対象となる空間」の両義性を可能にする。そしてカタストロフを対象としつつも、ビルの倒壊と老人の築き上げた虚像の崩壊が「空間的配置の変化」のみで示されるがゆえに感傷性に陥ることがないのである。<br />
さて、この議論の根底にあるのはやはり「見えないものの可視化」にかんする問題である。アンドルー氏は『11’09”01/セプテンバー11』のショットに対応するものとして、ロベルト・ロッセリーニ『イタリア旅行』(1954)における遺跡発掘のシーンを挙げていた。火山の噴火で亡くなった人の体が溶岩のなかに空洞として残り、そこに石膏を流し込んで死者の姿を浮上させる。「ネガ状のもの」から「ポジ」を作り出すことは、バザンにとって失われたものの再現を可能とする唯一の道であったようである。最後に、『11’09”01/セプテンバー11』における影がおそらくCGで制作されていることを言い添えておきたい。この点は、今日の映画におけるCGの使用をバザン的な観点からどのように捉えうるのかという議論の契機となるのではないだろうか。<br />
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<h4>書かれたせりふと「声」</h4>
濱口監督の発表では、バザンの文章における「両義性」と映画に備わる性質との親和性に目が向けられた。映画のもつドキュメンタリー性とフィクション性は、撮影現場において常に「何を記録し、どの程度断片化するか」という問いをもたらすという。こうした異なる性質の共存からくる現場での苦悩を、バザンは映画について書くうえで共有していたようである。例えば、一見反リアリズムとも思える演劇映画とバザンのリアリズム論との関連性は、せりふ=書かれた言葉に付随する演劇的不自然さをどうするか、という現場での問いに直結すると濱口監督は指摘した。ここでかの有名な論考「演劇と映画」(1951)の詳細を述べることはしないが、バザンの評価した演劇映画とは、要するに「映画にしようとする配慮」<a href="#fn6" name="top6"><sup>*6</sup></a>が見られない作品である。あくまで「演劇に従」<a href="#fn7" name="top7"><sup>*7</sup></a>わなければならず、そのためには「潜在的に演劇である」<a href="#fn8" name="top8"><sup>*8</sup></a>せりふを受け入れることがまずもって重要となる。濱口監督が着目したのは、この「演劇に従う」という表現にみられるバザンの映画観が、1944年に発表された「リアリズムについて」<a href="#fn9" name="top9"><sup>*9</sup></a>ですでに確認できることである。そこではマックス・ランデールの作品やムルナウの『タブウ』(1931)のような作品がまったく古びないのは、「リアリズムに服従」しているからだと説明されている。つまり、機械的な生成によって可能となった写真映像の客観的なリアリズムに従うことで、それらの作品は「瞬間の正確さ」に到達し、それゆえ永続性を獲得しているのである。発表では、この「瞬間の正確さ」——これは広義のアダプテーションにおける存在論的同一性、とも言い換え可能であろう——について二点の具体例が挙げられた。一つは先にも触れた「せりふ」である。せりふに備わる演劇的不自然さを受け入れ試行錯誤を繰り返す。そのプロセスを経て、いわば演劇と映画のアマルガムとしてのせりふがあらわれてくる。もう一つは俳優の身体の内的な状態を露呈するものとしての「声」である。発表では『ジャン・ルノワール』からバザンの文章とルノワールになされたインタヴューが引かれ、こう言ってよければ、俳優と登場人物のアマルガムとなりうる声に対するバザンおよびルノワールの関心が垣間見えた。<br />
濱口監督の発表を受けてアンドルー氏が言及したのは、バザンのテクストにみられる不純さへの信仰についてであった。バザンは演劇をヨーロッパの大劇場にある大きなシャンデリアに、映画を映画館で足元を照らす懐中電灯に見立てたことがあったという。その意味で演劇の映画化はアマルガムのようなものであり、シャンデリアに懐中電灯を当てるとまた別の光り方をして、映画についても演劇についてもより多くのことを学べるのではないか、というバザンの意識がうかがえるとアンドルー氏は指摘した。そしてそれはプロの役者と素人の組み合わせから、それぞれだけでは持っていない力を作り出す「混合の法則」<a href="#fn10" name="top10"><sup>*10</sup></a>とも重なる。異なる性質をもつものの組み合わせがうまくいけばより鋭いものが出来上がる。こうした思考がバザンのアダプテーション論を支えているのである。<br />
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<h4>バザンの演技論</h4>
<table cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="float: right; margin-left: 1em; text-align: right;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEigEgU1u7A-oK-Zi12rJii0-pbKbEanrloqLaW4pRdnkiJLNcfi3hiOd856MBHTrqP1CP_7Zu3yvrY5PT1swfVgru0waY1_LJnzxkEyWMtup2Sz5ZMTJd-haVWZkVRWt_jSi8bEu225_58/s1600/panel2.jpg" imageanchor="1" style="clear: right; margin-bottom: 1em; margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="406" data-original-width="1033" height="156" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEigEgU1u7A-oK-Zi12rJii0-pbKbEanrloqLaW4pRdnkiJLNcfi3hiOd856MBHTrqP1CP_7Zu3yvrY5PT1swfVgru0waY1_LJnzxkEyWMtup2Sz5ZMTJd-haVWZkVRWt_jSi8bEu225_58/s400/panel2.jpg" width="400" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">左より伊津野氏、角井氏、堀氏、藤原氏(通訳)、アンドルー氏、野崎氏</td></tr>
</tbody></table>
「写真とはモデルそのものなのだ」というとき、モデルとは具体的にいかなるものか。濱口監督の発表内容にも通じるこの問いに対し、角井氏の研究発表「俳優の逆説——アンドレ・バザンの演技論」では演技論の観点から答えが提示された。角井氏がまず指摘したのは、バザンが「表現としての演技」を退け、「痕跡としての演技」を評価したことである。前者が「心理の間接的表現」であるのに対し、後者は「魂の直接的翻訳」を指す。ここでもバザンはもっともらしく見せるような「配慮」を批判しているのだ。とはいえ「魂の直接的翻訳」はどのようにして可能となるのか。角井氏によって引かれたバザンのテクストからわかるのは、魂があらわれるのは顔/表皮であるということだ。この発想は、機械的生成によって現実がフィルム/皮膜に刻まれるという発想に合致する。したがってこのとき魂の痕跡としての顔/表皮は、その人物の「インテグラルな存在」を提示することになる。さらにこうした顔/表皮は、「きわめて即物的、身体的で、人間よりも自然や動物、事物の秩序に近しいものとして描き出される」という。発表中に紹介されたバザンのテクストから一部をここに書き出してみると、例えばロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』(1951)における顔の表皮の動きは「出産や脱皮の際の脈絡のない痙攣」<a href="#fn11" name="top11"><sup>*11</sup></a>と記され、カール・テオドア・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』(1928)における顔の表皮の動きは「地震の揺れ」や「潮の流れ、満ち引き」に譬えられている<a href="#fn12" name="top12"><sup>*12</sup></a>。心理的表現が剥ぎ落とされ俳優が非人間的なものへ生成変化していくという話は、この日の基調講演でバザンのテクストにおける非人間性が強調されたこともあり、非常に興味深かった。<br />
とはいえ「魂の痕跡」という場合、その魂は誰のものなのか。それは俳優の魂と登場人物の魂が一致し、両者の区別がつかないものだという。ここで先述の「アマルガム」というタームが思い出される。そして俳優と登場人物が一致する状況を作り出すためにルノワールが採用した方法の一つとして、「イタリア式本読み」があると角井氏は指摘した。ルノワールもまた、ブレッソンと同様に、俳優から心理的表現を剥ぎ落とし、非人間化することで、俳優と登場人物が魂の次元で一致することを目指したのである。<br />
アンドルー氏はさらに追求できることとして、サイレントからトーキーへ移行する時期の作品において、内面にあるものがどのように外面の痕跡としてあらわれているか、そしてその形態はどのように発展したかという問題を挙げていた。それはまた、濱口監督が提示した声の問題とも接続する。さらに、ブレッソンとルノワールが、表現としての演技を避けるという共通の意識——ブレッソンは「モデル」にジェスチャーを繰り返させ、ルノワールはイタリア式本読みを取り入れた——を持っていたのにもかかわらず、出来上がった作品はまるで違うことについても言及された。バザンが「より多くの現実をスクリーンに現出させようとするシステム、あらゆる技法を「リアリズム的」と呼びたい」というとき、「同じ対象、同じ出来事について、さまざまに異なる表現が可能である」と続けた一節を思い出した<a href="#fn13" name="top13"><sup>*13</sup></a>。<br />
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<h4>バザンのテクストの生成研究</h4>
堀氏の研究発表「「写真映像の存在論」再考——アンドレ・バザンにおける運動と静止」は「存在論的リアリズム」の問題に深く関わるもので、「写真映像の存在論」における写真と映画、運動と静止の関係性が検討された。まず「写真映像の存在論」には三つのヴァージョンがあるという。一つは1945年に『絵画の諸問題』に掲載されたもの。もう一つはそこから改稿され1958年に『映画とは何か』に収められたもの。そして、1944年の前半に執筆されたと思われる草稿<a href="#fn14" name="top14"><sup>*14</sup></a>である。そしてこの草稿が重要なのは、「写真映像の存在論」ではやや不明瞭となっている映画と写真の関係性をより詳細に語ろうとしているからだ。そこでは完成稿にはない「凝固」と「流動」のメタファーが使用され、映画装置のメカニズムについて考察されている。詳細はぜひ草稿とそれをめぐる堀氏による論考<a href="#fn15" name="top15"><sup>*15</sup></a>を参照していただきたいが、バザンは映画を、「「死んだ時間の断片」を集積し、それに「一時的な流動性」を与える「機械仕掛け」」として考えていた。ここで堀氏は、映画装置を「一枚一枚の不動の写真に「運動」を付与するもの」とするベルクソンの思考にバザンの主張との近似をみる。しかし続いて指摘されたのは、両者の決定的なずれであった。バザンは写真を、「事物の外見とともに、その外見が沈み込んでいるところの時間それ自体がとらえられている」<a href="#fn16" name="top16"><sup>*16</sup></a>ものとして把握した。つまり、写真も持続の側に位置づけられるのだ。したがって、「写真映像の存在論」完成稿に書きつけられた「映画とは、写真的客観性を時間において完成させたものである」<a href="#fn17" name="top17"><sup>*17</sup></a>という一文は文字通りの意味で把握されるという。<br />
しかし留意すべきは、バザンが「写真映像の存在論」の完成以降、「凝固」と「流動化」のメタファーを削除し、「型取り」という発想を取り入れたことである。写真は「瞬間」を、映画は「持続」を型取りする。ここで言及されたのは、『創造的進化』から七年後に行われたというインタヴュー<a href="#fn18" name="top18"><sup>*18</sup></a>で語られたベルクソンの映画観である。そこでは、シネマトグラフが「静止画像に「運動」という要素を加えたものとしてではなく、「唯一のものへと融合」された持続を一挙にとらえるものとして構想」されている。そしてそれは、持続をひとかたまりに型取りするというバザンの発想に共鳴するのである。<br />
アンドルー氏は、「写真映像の存在論」がバザンにおける最も重要な文献であると同時に映画を論じた文献のなかでもとりわけ重視すべきものだと言及した。そこには歴史的理由があるという。このエッセイはかなり初期に書かれ、2700もの文献が時系列順に収められたバザン全集<a href="#fn19" name="top19"><sup>*19</sup></a>の第25番目にあたる。そしてバザンが最も時間をかけて書き上げた文章でもあった。アンドルー氏によれば、「写真映像の存在論」の草稿は1944年6月にはすでに用意されていたという。というのも、「写真映像の存在論」の初出は『絵画の諸問題』<a href="#fn20" name="top20"><sup>*20</sup></a>においてだが、そもそもこの論集については、1944年6月の刊行が目指されていたそうだ。しかし、戦争の影響がその試みを許さず、論集の発表は見送られてしまった。<br />
また、45年版と58年版を詳細に比較したエルヴェ・ジュベール゠ローランサン<a href="#fn21" name="top21"><sup>*21</sup></a>が、はるかに若い時期に書かれた前者ではよりラディカルでシュルレアリスト的なバザンの思考がうかがえる、と述べていることにも言及し、バザンのテクストにかんする生成研究の重要性が指摘された。<br />
<br />
<h4>バザンのリアリズムと観客</h4>
伊津野氏の研究発表「存在に触れるまなざし——観客論としてのバザン的リアリズム」では、バザンのリアリズム概念を構成する「存在論的リアリズム」、「美学的リアリズム」、「心理学的リアリズム」の内実および関係性が明快に解説され、そのうえでそうしたバザン的リアリズムが観客論の視座から読み解かれた。三層から成り立つリアリズム論の概要は冒頭に触れたところと重なるため、ここでは「映像を介して現実と対峙する観客の問題」に的を絞りたい。伊津野氏によれば、「心理的リアリズム」というときの「心理」とは、「観客が映像に写された現実に向かい合う際の、いわば「体感」のようなもの」だという。濱口監督、角井氏の発表からも確認したように、バザンは「映画にしようとする配慮」やもっともらしく見せようとする表現、言い換えれば人間の手を介し「錯覚」として世界を再創造することを批判した。これらは作り手に対する要請であるが、観客にも同様に、「精神のもや」のかかった知覚を乗り越え、人間化されていない世界=「潜在的な現実」を「本物の幻覚」として知覚するように求めたのである。その意味で「バザンのリアリズムは観客にとって一種の「異化効果」となる」<a href="#fn22" name="top22"><sup>*22</sup></a>。そして、こうした観客の映画体験が「映画を見ること」であると考えれば、バザンの主張する「完全映画」の理解にも繋がるという。バザンは「芸術家の恣意的解釈という障害や、時間の不可逆性から解き放たれた似姿(イメージ)」が作り出される「総合的なリアリズム(réalisme intégral)」を「完全映画」という言葉で表した<a href="#fn23" name="top23"><sup>*23</sup></a>。ここまでに見てきたとおり、個別の視座によってとらえられる時空間のかたまりを「統合=積分(インテグラル)」することで、映画は到達しえない全体の近似値を示すことができる。そのとき、観客の映画体験は「心理的に拡張された身体感覚」となるのである。こうした「体感」とは例えば、バザンがルノワールの『素晴らしき放浪者』(1932)について書いた一節から確認できるという。この白黒映画で示される水にかんしてバザンは、「黄色がかった緑黄色の水」とあらわし、「我々にも少しずつ、その水の心地よさや深さやなまぬるさまでもが感じられる」と記述している<a href="#fn24" name="top24"><sup>*24</sup></a>。伊津野氏はこの状況こそ、観客を知覚の真の条件下に置くものであり、そのとき観客は「まなざしを通して存在に触れることになる」と指摘した。こうした感覚の「拡張」は4DXやVRによる人間的知覚の「増幅」とは本質的に異なるのである。<br />
アンドルー氏からは、「幻覚」がバザンにとって特別な現象であったことが補足された。バザンがブルトンやフローベールについて書いた文章では、錯覚によって作られたものよりもさらに大きな幻覚を表現することができる、という考え方が確認できるという<a href="#fn25" name="top25"><sup>*25</sup></a>。また、病弱だったバザンはしばしば高熱にうなされ、幻覚を見ることがあったようである。そして、同様の経験をしていたというフローベールにバザンは親近感を抱いており、両者とも幻覚が起こる前段階の知覚体験に関心を持っていたのではないか、と指摘された。さらに、両者の共通点として「視点の推移」が挙げられた。フローベールにおいては人物の視点に作家の視点が入り込み(自由間接話法)、バザンにおいては人物から動物の視点へという発想がうかがえる。バザンとフローベールの独特のリアリズムが「幻覚」の観点から読み解かれることは非常に興味深い。<br />
<br />
<center>*</center>
<br />
シンポジウムの最後に、フロアから「映画理論家ではなく、映画批評家としてのバザンについてどう考えるか」という質問がなされた。アンドルー氏によれば、雑誌や新聞で活躍していたバザンは、読者へのサービスもあって、俳優の演技について多くの記事を執筆していたという。それゆえ形だけのものも多いというが、「全体を見ればバザンの演技観がより理解できるように思われる」と述べていた。そして、印象的なのは、「バザンの批評を読むうえで確実に約束できることがある」と言い添えたことである。「どんなにささいな記事でも、必ずどこか一つには光があり、それは刺激的な読書体験をもたらす」。それがバザンのテクストであり、膨大な批評記事からは、いかにバザンが一貫する主張を持っていたかがみえてくるという。<br />
今回のシンポジウムの意義はなんといっても、バザンの映画論全体を様々な視点から一挙に見られたことにある。その結果気づかされたのは、バザンのテクストそのものが「インテグラル」なものであるということだ。そしてそこでは「曖昧さ」よりも「一貫性」が目立つように思われた。ついに全集が出版されバザンによるすべてのテクストを享受できるようになった今、映画批評や映画研究、そして映画体験に差し込むであろう「光」をたどっていくことが楽しみでならない。<br />
<br />
<hr width="100%" />
<span class="Apple-style-span" style="font-size: small;"><br />
<a name="fn1"><b>*1 </b></a>アンドレ・バザン「写真映像の存在論」、『映画とは何か(上)』野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳、岩波文庫、2015年、18頁。<a href="#top1"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn2"><b>*2 </b></a>例えばMary Ann Doane, <i>The Emergence of Cinematic Time: Modernity, Contingency and the Archive</i> (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2002).<a href="#top2"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn3"><b>*3 </b></a>Noël Carroll, <i>Philosophical Problems of Classical Film Theory</i> (Princeton: Princeton University Press, 1988), 148-149.<a href="#top3"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn4"><b>*4 </b></a>Daniel Morgan, “Rethinking Bazin: Ontology and Realist Aesthetics,” <i>Critical Inquiry</i> 32, no. 3 (Spring, 2006): 443-481.<a href="#top4"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn5"><b>*5 </b></a>伊津野知多「アンドレ・バザンのリアリズム概念の多層性」、<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/04/2.html">『アンドレ・バザン研究』2号</a>、2018年、111-136頁。<a href="#top5"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn6"><b>*6 </b></a>バザン「演劇と映画」、『映画とは何か(上)』、234頁。<a href="#top6"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn7"><b>*7 </b></a>同書、285頁。<a href="#top7"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn8"><b>*8 </b></a>同書、231頁。<a href="#top8"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn9"><b>*9 </b></a>アンドレ・バザン「リアリズムについて」堀潤之訳、<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/04/2.html">『アンドレ・バザン研究』2号</a>、8-11頁。<a href="#top9"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn10"><b>*10 </b></a>バザン「映画におけるリアリズムと解放時のイタリア派」、『映画とは何か(下)』野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳、岩波文庫、2015年、89頁。<a href="#top10"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn11"><b>*11 </b></a>バザン「『田舎司祭の日記』とロベール・ブレッソンの文体論」、『映画とは何か(上)』、194頁。なお、訳の改変は発表者に従う(以下同様)。<a href="#top11"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn12"><b>*12 </b></a>バザン「演劇と映画」、273頁。<a href="#top12"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn13"><b>*13 </b></a>バザン「映画におけるリアリズムと解放時のイタリア派」、95頁。<a href="#top13"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn14"><b>*14 </b></a>アンドレ・バザン「写真映像の存在論[草稿]」堀潤之訳・注釈、<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/04/2.html">『アンドレ・バザン研究』2号</a>、15-29頁。<a href="#top14"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn15"><b>*15 </b></a>堀潤之「パランプセストとしての「写真映像の存在論」——マルロー、サルトル、バザン以前のバザン」、<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/04/2.html">『アンドレ・バザン研究』2号</a>、2018年、30-55頁。<a href="#top15"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn16"><b>*16 </b></a>バザン「写真映像の存在論[草稿]」、16頁。<a href="#top16"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn17"><b>*17 </b></a>バザン「写真映像の存在論」、18頁。<a href="#top17"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn18"><b>*18 </b></a>Louis-Georges Schwartz, “‘Henri Bergson Talks to Us About Cinema,’ by Michel Georges-Michel from <i>Le Journal</i>, February 20, 1914,” <i>Cinema Journal</i> 50, no. 3 (Spring 2011): 81-82.(大石和久「<a href="http://hokuga.hgu.jp/dspace/handle/123456789/3138">映画を語るベルクソン——「アンリ・ベルクソンが映画について語る」翻訳と注釈</a>」、『北海学園大学人文論集』61号、2016年、4-5頁)<a href="#top18"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn19"><b>*19 </b></a>André Bazin, <i>Écrits complets</i>, ed. Hervé Joubert-Laurencin (Paris: Macula, 2018).<a href="#top19"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn20"><b>*20 </b></a>Gaston Diehl, ed., <i>Problème de la Peinture</i> (Lyon: Confluences, 1945).<a href="#top20"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn21"><b>*21 </b></a>Hervé Joubert-Laurencin, <i>Le sommeil paradoxal: Écrits sur André Bazin</i>, (Montreuil: Éditions de l’œil, 2014). なお、「写真映像の存在論」の草稿はジュベール゠ローランサンによって『トラフィック』誌に掲載され、その際、詳細な解説も添えられた。この点にかんしては前述の「写真映像の存在論[草稿]」における堀氏による注釈および解題を参考にされたい。<a href="#top21"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn22"><b>*22 </b></a>バザンのリアリズム論と「異化効果」の関連性は、伊津野知多「仕掛けとしての現実性:アンドレ・バザンの演劇映画論をめぐって」(『映像学』第64号、2000年)でも仔細に考察されている。<a href="#top22"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn23"><b>*23 </b></a>バザン「完全映画の神話」、『映画とは何か(上)』、31頁。<a href="https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=1215791719429790482#%20top23"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn24"><b>*24 </b></a>バザン『ジャン・ルノワール』奥村昭夫訳、フィルムアート社、1980年、100頁。
<a href="#top24"><sup>↩</sup></a><br />
<a name="fn25"><b>*25 </b></a>この指摘はジャン゠フランソワ・シュヴリエによる。Jean-François Chevrier, “The Reality of Hallucination in André Bazin,” in <i>Opening Bazin</i>, eds., Dudley Andrew and Hervé Joubert-Laurencin (Oxford: Oxford University Press, 2011), 42-56.<a href="#top25"><sup>↩</sup></a><br />
</span>
<br />
<hr width="100%" />
<br />
【著者プロフィール】<br />
原田 麻衣(はらだ・まい)<br />
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程在籍。論文に<a href="http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN21/PDF/harada_article.pdf">「トリュフォー作品における脚ショットと女性像」</a>(CineMagaziNet! No. 21、2018年)、<a href="http://www.bigakukai.jp/wakate/papers2018/2018_11.pdf">「トリュフォー作品におけるカメラムーヴメントの説話的機能」</a>(第69回美学会全国大会若手研究者フォーラム発表報告集、2019年)がある。</div>
CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-20137413763240709352019-04-12T09:08:00.000+09:002019-04-12T11:28:57.254+09:00『アンドレ・バザン研究』第3号の入手方法<div style="text-align: justify;">
『アンドレ・バザン研究』<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2019/03/3.html">第3号</a>は非売品で、国会図書館および一部の大学図書館を除いて、一般に流通しません。</div>
<div style="text-align: justify;">
<br /></div>
<div style="text-align: justify;">
入手を希望される方には、実費(送料分)で送付いたします。<b>任意の封書に①『アンドレ・バザン研究』第3号を希望する旨のメモ、②送付希望先の住所・氏名を記載した<a href="https://www.post.japanpost.jp/service/smartletter/index.html">スマートレター</a>(180円)の2点を封入のうえ、以下の宛先に郵送</b>してください(往信の切手代はご負担ください)。折り返し、封入いただいたスマートレターにて第3号をご送付いたします。</div>
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid #ccc; padding: 10px;">
<b>【送付先】</b><br />
〒990-8560<br />
山形県山形市小白川町1-4-12<br />
山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内 アンドレ・バザン研究会</div>
<br />
※スマートレターは全国の郵便局等でお買い求めください。スマートレター以外の方法による送付はいたしかねますので、必ずスマートレターをご用意ください。<br />
<br />
※発送作業は研究所の所員が行うため、出張などにより発送まで10日間程度の期間をいただくこともあります。また、授業期間外の場合、発送まで大幅に時間がかかることもあります。どうかご了承ください。<br />
<br />
※この<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.jp/2017/11/1.html">エントリー</a>に記載のとおり、<b><span style="color: red;">『アンドレ・バザン研究』第1号の頒布は終了しております</span></b>ので、ご留意ください。<br />
<br />
※第2号はまだ残部があります。第2号もあわせて入手を希望される場合は、メモにその旨記載のうえ、送付希望先の住所・氏名を記載した<span style="color: red;"><b>スマートレターをもう一部封入</b></span>してください。厚さの関係で、第3号と第2号を一つのスマートレターに同梱することができませんので、ご留意ください。<br />
<br />
※残部僅少となった場合、このブログでも告知し、受付を中止します。<br />
<div style="text-align: right;">
以上</div>
CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-43170525043281183242019-03-31T21:00:00.000+09:002019-05-21T11:20:26.326+09:00『アンドレ・バザン研究』第3号の刊行 2016年6月に<a href="https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/laboratory/picture/">山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所</a>内に発足したアンドレ・バザン研究会では、その2018年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第3号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=木下千花、堀潤之、角井誠、2019年3月31日発行、A5判104頁、ISSN 2432-9002)。<b style="color: red;">なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします</b>(【付記】入手方法については<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2019/04/3.html">このエントリー</a>をご覧ください)。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgnOILl1_Q5DVLzoq6fxsg4X6xWtvdsCq2RvW9-fW-YWhtG6w0c5ORLfF0n0DJLmK3EThcmCzpBQN8yuoMKHMexvhS_Y0G8qCWep7eZsJ8XAQSvSJfdH1tfpLlPg-r12YNyTQfxdLM7_8Q/s1600/AB03_cover_h1.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1128" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgnOILl1_Q5DVLzoq6fxsg4X6xWtvdsCq2RvW9-fW-YWhtG6w0c5ORLfF0n0DJLmK3EThcmCzpBQN8yuoMKHMexvhS_Y0G8qCWep7eZsJ8XAQSvSJfdH1tfpLlPg-r12YNyTQfxdLM7_8Q/s640/AB03_cover_h1.jpg" width="449" /></a></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<br />
本号は、バザン生誕100周年記念イベントとして2018年12月に行った二つのイベントを中心に編まれています(詳しくは以下の「編集後記」をご覧ください)。目次は以下の通りです。<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;">
ダドリー・アンドルー「この残酷な世界へのバザンのインテグラルな視座」(木下千花・堀潤之゠訳)<br />
野崎歓「〈インテグラル・バザン〉と出会うために――ダドリー・アンドルーの問いかけ」<br />
三浦哲哉「メトニミーについて――ダドリー・アンドルー講演の余白に」<br />
濱口竜介「曖昧な映画の書き手」<br />
<br />
<b>[小特集]映画とアダプテーション</b><br />
アンドレ・バザン「脚色、あるいはダイジェストとしての映画」(堀潤之゠訳)<br />
吉村和明「アダプテーションの冒険――ロベール・ブレッソン『ブローニュの森の貴婦人たち』をめぐって」<br />
須藤健太郎「映画は疑問符のなかに――「不純な映画のために」再読序説」</div>
<br />
巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介になっているので、以下、その全文を掲げておきます。<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;">
インテグリティについて――第三号イントロダクション<br />
<div style="text-align: right;">
木下千花</div>
<br />
アンドレ・バザンの生誕100年であり歿後60年であった2018年、研究会の活動の一つの軸となり、本号の中心になったのは、バザン研究のまさに泰斗であるダドリー・アンドルー氏(*)の招聘である。
日本学術振興会外国人研究者招へい事業の助成により12月に三週間近くに亘って滞在したアンドルー氏は、16日に東京大学駒場キャンパスで開催されたシンポジウム「<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/11/100.html">21世紀のアンドレ・バザンに向けて</a>」を皮切りに、山形大学小白川キャンパスにおける「<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/11/100.html">映画とアダプテーション――アンドレ・バザンを中心に</a>」(20日)、さらに京都文化博物館では溝口健二の生誕120年を記念する国際シンポジウム「<a href="https://sites.google.com/site/kyotofilmcolloquium/news/mizoguchi120">『近松物語』における伝統と革新</a>」(22日)と、たて続けに密度の高い講演を行い、討議に参加しては深い学識を惜しげもなく披露した。東京と山形におけるバザン関連のイベントについては角井誠氏も本号編集後記で紹介しており、詳細は本研究会ブログに報告が掲載予定なので参照されたい。<br />
<br />
本号の巻頭では、アンドルー氏が東京での基調講演をさらに推敲した原稿「この残酷な世界へのバザンのインテグラルな視座」を木下が堀潤之氏の協力を得て訳出した。この論文はアンドルー氏のバザン論として現時点で最新のものであり、世界に先がけて英語よりも早く世に出ることになる。アンドルー氏は1980年代以降のフランス語圏および英語圏におけるバザンの受容を、映画を持続と変容のメディウムとして捉えた理論家としての「時間のバザン」から、エコクリティシズムや思弁的実在論の先駆としての「ポストヒューマン的バザン」への流れとして整理する。後者の潮流に棹を差しつつアンドルー氏が提示するのは、人間とそれ以外の生物たちの多様な視座(パースペクティヴ)と時間性が併存する「空間」を鍵とするバザンの読み直しだ。『戦火のかなた』(1946)や『ゲームの規則』(1939)のようなバザンの映画批評としては定番のタイトルが、視座を変えることでその相貌を一変させ、新たな事物の配列と細部が鮮やかに浮上する。さらに、非人間の視座から空間を見つめる「残酷の映画」として『象は静かに座っている』(2018)をはじめとした今世紀の作品が俎上に載せられる。<br />
<br />
このように、抽象度の高い理論を展開すると同時に現代においてバザン批評を継続するアンドルー氏は、野崎歓氏と三浦哲哉氏というきわめて相応しい対話者を得た。野崎氏はアンドルー講演の壮大なスケールと難解さをまさにバザンの映画論自体に由来するものとして正面から受け止め、その宇宙と生き物たちへの言及をシュルレアリスムからハリウッド映画へと縦横無尽に接続してゆく。三浦氏はアンドルー氏が取り上げた修辞のうち換喩(メトニミー)に着目して援用し、『11'09''01/セプテンバー11』(2002)の「アメリカ篇」(ショーン・ペン)のような現代映画における「影」が、隠喩でもメタ映画的仄めかしでもなく、空間的なリアリズムを達成していることを示唆する。<br />
<br />
濱口竜介氏のバザン論は、現代の世界映画を代表する監督と映画史上最も偉大な批評家の邂逅であり、僥倖というよりほかない出来事である。濱口氏の実践に基づく理論は、まさにアンドルー講演がしたのと同じしかたで、バザンの演技論の核心を射貫いてその可能性を拡張し、演技を演技として記録することによって生み出される「リアリズム」の残酷で猥褻な美を明らかにする。<br />
<br />
本号の小特集はアンドルー氏がバザンから継承したもう一つの重要なテーマである翻案(アダプテーション)を取り上げる。堀氏による「脚色、あるいはダイジェストとしての映画」の翻訳は、バザンの主要論文の一つでありながら邦訳のなかった脚色゠適応(アダプテーション)論を精緻な手さばきによって明晰な日本語に変換し、メディアミックス時代の――それゆえにこの論文の真価をまさに理解しうる――読者へと送り届ける。吉村和明氏と須藤健太郎氏の論考は山形での発表を発展させたものである。吉村氏の『ブローニュの森の貴婦人たち』(1945)論は、ドニ・ディドロを原作とするロベール・ブレッソンの映画において「ふたつのリアリズムが互いを破壊し合」う、というバザンの言葉を手がかりにしたテクスト分析であるが、その鳥肌が立つような繊細さは、まさに分析対象を擬態するかのようだ。須藤氏による「不純な映画のために」再読は、よく知られているはずのこのバザン論文には「不純な映画」という言葉は一度も登場しないという「目から鱗」の指摘から説き起こし、「純粋/不純」をめぐる1930年代以降のフランス映画文化の文脈を辿ることで、バザンの批評的戦略を明らかにする。<br />
<br />
1945年にカリフォルニアに生まれたアンドルー氏は、博士論文の研究を発展させた評伝『<a href="https://global.oup.com/academic/product/andr-bazin-9780199836956">アンドレ・バザン</a>』(1978年)をオックスフォード大学出版から上梓して以来少なく見積もって40年間、バザン研究を継続してきた。一方、アンドルー氏はフランス映画史、映画理論、溝口をはじめとした世界映画(ワールドシネマ)など複数の分野の第一人者であり、デイヴィッド・ボードウェルに始まってD・N・ロドウィック、メアリ・アン・ドーンなどの錚々たる研究者を育て、英語圏におけるアカデミックな映画研究を草創期から第一線で牽引してきた。だが、まさにアンドルー氏が立役者の一人となった今世紀初頭の世界的なバザン・ルネッサンスを経た現在では想像し難いことだが、単行本化されずに様々な媒体に散らばったバザンの批評を収集し読み続ける営為が、映画研究の中心という地位にそぐわなく見えた時代は確かに存在した。さらに言うと、芸術領域間のヒエラルキーやオリジナリティの神話が崩壊しニューメディア研究が興隆した今でこそ、翻案研究はもてはやされているが、長いこと、映画原理主義者には純潔を疑われる一方で、文学研究者には軽んじられ密猟される不幸な領域であった。<br />
<br />
アンドルー氏は、常に最新のトレンドと切り結び、多様な方法論と寛容な対話を続けつつ(アンドルー氏の「あの学生はいつも私とまったく反対のことを言う」という言葉は絶賛である)、決してブレない。ダドリー・アンドルーには、アンドレ・バザンをあたかも擬態したかのような高潔さ(インテグリティ)がある。<br />
<br />
*本誌第二号において、さらにアンドルー氏招聘事業の一連の告知において、Andrewに「アンドリュー」の表記を当ててきたが、現在の慣用に照らし、本人にも確認したうえで、「アンドルー」に改める。近藤耕人氏のご指摘に感謝する。さらに第一号において木下が批評を訳出したAndrew Sarrisの名も「アンドリュー」ではなく「アンドルー」たるべきであった。(思えばこの聖アンデレに由来する名はバザンとも共通している。)ここに謹んでお詫びするとともに、訂正したい。</div>
<br />
続いて、角井誠氏による編集後記の全文です。<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;">
アンドレ・バザンの生誕100周年にあたる2018年は、本研究会にとって充実した年となった。11月のプレイベントを皮切りに、12月にはバザン研究の大家であるダドリー・アンドルー氏を迎えて盛大な生誕百周年記念イベントを行った。本号はそれらのイベントを出発点として編まれたものである。「作家主義再考」、「存在論的リアリズム」を掲げてバザンの思想を掘り下げてきた前二号とは些か趣を異にしつつも、アンドルー氏や濱口竜介監督の寄稿もあり、これまた充実した号となったのではないかと思う。<br />
<br />
ここでは、2018年度の本研究会の活動を簡単に振り返っておきたい。11月には表象文化論学会の研究発表集会の関連イベントとして山形大学において生誕100周年プレイベント「<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/10/100.html">バザン、レリス、闘牛</a>」が開催された。ピエール・ブロンベルジェとミリアムによる『闘牛』(1951、日本未公開)の上映に続いて、この映画について「すべての午後の死」という短いながらも重要なテクストを残したバザンと、同作のナレーションを執筆したミシェル・レリスの二人をめぐって、谷昌親氏、千葉文夫氏、大久保清朗氏、角井による解説、発表が行われた。バザンの映画論について思索を深めるばかりでなく、レリスとの遭遇によってバザンの思想をより広い文脈へと開く機会ともなった。このイベントに関連する論考は本号に含まれていないが、表象文化論学会のニューズレター『REPRE』35号に<a href="https://www.repre.org/repre/vol35/meeting13/azuma/">東志保氏による報告</a>が掲載されているので、ぜひそちらもご覧頂きたい。<br />
<br />
12月の<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/11/100.html">生誕100周年記念イベント</a>は二部に分けて開催された。第一部「21世紀のアンドレ・バザンに向けて」は12月16日に東京大学駒場キャンパスで開催され、アンドルー氏の刺激的で野心的な基調講演、それを受けての濱口竜介監督、野崎歓氏、三浦哲哉氏によるラウンド・テーブル、そして堀潤之氏、伊津野知多氏、角井による研究発表と、合計五時間にわたって濃密な講演、発表が繰り広げられた。そして12月20日には、山形大学において第二部となる「映画とアダプテーション――アンドレ・バザンを中心に」が開催された。こちらもアンドルー氏の講演に続き、吉村和明氏、大久保清朗氏、須藤健太郎氏による発表が行われた。本号は、この100周年記念イベントに基づいている(第二部については、脚色をめぐるバザンの未邦訳論考も合わせて小特集とした)。多くの方にご来場頂き、イベントはいずれも盛会に終わった。本研究会の活動が、バザンへの関心を高めることに貢献できているとしたら、これほどうれしいことはない。<br />
<br />
しかし100周年は一つの節目に過ぎない。バザンの可能性を現在において、そして未来に向けて読み直す作業に終わりはないのだ。それに、われわれのもとにはついに(!)、ずいぶん前から刊行が噂されていた待望のバザン全集が届けられたではないか(<i><a href="http://www.editionsmacula.com/livre/119.html">Écrits complets</a></i>, édition établie par Hervé Joubert-Laurencin, Éditions Macula, 2018)。それはいまや真っ黒な箱に収められた重厚な二巻本として紛れもなく存在し、読まれることを待っている。バザン再考の作業はここから新たに始まるのだ。</div>
<div style="text-align: right;">
(J.H.)</div>
CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-13749299814688783472019-01-08T09:43:00.002+09:002019-01-08T09:43:30.564+09:00ピエール・エベール監督『バザンの映画』上映会のお知らせ 2019年1月18日(金)に、<a href="https://sites.google.com/site/kyotofilmcolloquium/">京都大学映画コロキアム</a>の一環として、以下の通り、カナダのアーティスト・映画監督の<a href="https://pierrehebert.com/en/about/biography/">ピエール・エベール</a>氏をお招きして、『バザンの映画』(2017)の上映会を行います。入場無料・来聴歓迎です。お気軽にご参加ください。<br />
<br />
<b>京都大学映画コロキアム </b><br />
ピエール・エベール監督『バザンの映画』上映会<br />
<br />
2019年1月18日(金)16:15-18:15(開場16:00)<br />
<a href="http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/yoshida/map6r_ys.html">京都大学吉田南キャンパス</a><br />
楽友会館2階会議・講演室(構内マップ96番の建物です。近衛通からお入りください。)<br />
<br />
<b>上映</b><br />
ピエール・エベール『<a href="https://pierrehebert.com/en/le-film-de-bazin-places-and-monuments-8/">バザンの映画</a>』(Pierre Hébert, <i>Bazin's Film</i>, 2017, 71 min.)<br />
※音声フランス語、英語字幕付きでの上映となります(日本語字幕なし)。<br />
<br />
<b>講演と討議</b><br />
ピエール・エベール(アーティスト・映画監督)<br />
聞き手:木下千花(京都大学)、堀潤之(関西大学)<br />
※講演は英語で行われます(通訳なし)。<br />
<br />
<b>概要</b><br />
映画批評家アンドレ・バザン(1918-58)は、死の直前に、フランス南西部のサントンジュにおけるロマネスク教会についての中篇ドキュメンタリー映画の制作を構想し、プロデューサーのピエール・ブロンベルジェの出資で、1958年4月と7月に当地でロケハンを行いました。作品が完成に至ることはなかったものの、その時に撮られた写真やノートが現在も残っているほか、映画の構想を綴った文章は、歿後に『カイエ・デュ・シネマ』100号に掲載されています(André Bazin, « Les églises romanes de Saintonge : projet de film d'André Bazin », <i>Cahiers du cinéma</i>, nº 100, octobre 1959, p.55-61)。<br />
ピエール・エベール監督による『バザンの映画』は、氏の構想する「場所とモニュメント」シリーズの一環をなすドキュメンタリー・エッセーです。バザンが遺した資料、現在のサントンジュの風景、さらにはドローイングやアニメーションが重ね合わされ、バザンの「脚本」がマイケル・ロンズデールの声によって朗読される――それによって、未完に終わったバザンの映画のありえたかもしれない姿が垣間見えると同時に、サントンジュという場所とそこにある建造物の過去と現在が詩的に浮かび上がってきます。<br />
本上映会では、『バザンの映画』上映後、監督ご本人にその制作背景を語っていただきます。<br />
<br />
<b>共催</b><br />
京都大学映画コロキアム、アンドレ・バザン研究会、科研費・基盤研究(C)「シネフィリーの時代におけるフランス映画批評の総合的研究」17K02394(研究代表者:堀潤之)<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjdfSCcn9HCK2J8Cbe4U1Jpibf7vE45qI9LY36MgHVrfm6cbxgiJNvucjoq7779fUl47ZyFbfFKxPaCROakyrJBzQPDfBQ775jktLfGVbDr1zOF4OVaBSAgdQIJh77zIimXhxQBRwML4jg/s1600/affiche-WEB-film-de-bazin.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1224" data-original-width="792" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjdfSCcn9HCK2J8Cbe4U1Jpibf7vE45qI9LY36MgHVrfm6cbxgiJNvucjoq7779fUl47ZyFbfFKxPaCROakyrJBzQPDfBQ775jktLfGVbDr1zOF4OVaBSAgdQIJh77zIimXhxQBRwML4jg/s640/affiche-WEB-film-de-bazin.jpg" width="412" /></a></div>
<br />
<span id="goog_232785300"></span><span id="goog_232785301"></span><br />CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-90342324554768261812018-11-16T17:20:00.000+09:002018-12-06T22:45:23.117+09:00バザン生誕100周年記念イベントのお知らせ フランスの映画批評家<b>アンドレ・バザン</b>(1918-1958)は、今年、生誕100年、歿後60年を迎えます。2016年6月に<a href="http://www-hs.yamagata-u.ac.jp/laboratory/picture/">山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所</a>内に発足し、国内の様々な大学に所属する10名の研究者で構成される<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.com/2017/05/blog-post.html">アンドレ・バザン研究会</a>は、これまで2号にわたって会誌<b>『アンドレ・バザン研究』</b>を刊行し(<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2017/05/1.html">第1号</a>、<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/04/2.html">第2号</a>)、映画研究・批評にとって巨大な存在であるバザンの思索についての考察を深めてきました。<br />
<br />
今回の生誕100周年記念イベントはパート1とパート2に分かれ、東京と山形で1日ずつ開催します。<b>パート1「21世紀のアンドレ・バザンに向けて」</b>では、20世紀中葉の限られた期間しか活動しなかったバザンが、どのような今日的意義を持つのかを考察するとともに、研究会会員による最新のバザン研究の一端を披露します。<b>パート2「映画とアダプテーション――アンドレ・バザンを中心に」</b>では、バザンの中心的なテーマの一つだった「アダプテーション」に焦点を絞り、単なる文学作品の脚色を越えたその諸相を探ります。<br />
<br />
なお、特別ゲストとして、世界的なバザン研究の第一人者である<b><a href="https://filmstudies.yale.edu/people/dudley-andrew">ダドリー・アンドリュー氏</a></b>(イェール大学)をお招きし、両パートで基調講演をしていただきます。また、東京での基調講演を受けたラウンドテーブルでは、映画監督の<b>濱口竜介氏</b>にも加わっていただき、バザンのアクチュアリティについて討議を行います。さらに、山形ではフランス文学者の<b><a href="http://dept.sophia.ac.jp/human/flit/faculty/kazuaki_yoshimura/">吉村和明氏</a></b>(上智大学)にもゲストとして研究発表を行っていただきます。<br />
<br />
【12/5追記】なお、京都文化博物館フィルムシアターでは12月22日(土)に、ダドリー・アンドリュー氏の基調講演や『近松物語』4Kデジタル修復版上映を含む<b>溝口健二生誕120年記念国際シンポジウム「『近松物語』における伝統と革新」</b>が開催されます。詳細は、<a href="https://sites.google.com/site/kyotofilmcolloquium/news/mizoguchi120">こちら</a>をご覧ください。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
*</div>
<br />
<div style="text-align: center;">
<b><span style="font-size: large;">アンドレ・バザン生誕100周年記念イベント</span></b></div>
<b><br /></b>
<br />
<div style="text-align: center;">
<b>パート1「21世紀のアンドレ・バザンに向けて」</b></div>
<br />
<div style="background: #f9f9f9; border-radius: 10px; border: 3px dotted #999999; padding: 15px;">
【日時】2018年12月16日(日) 13:00-18:30<br />
【会場】東京大学駒場キャンパス 21 KOMCEE West 地下1階レクチャーホール <a href="https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/campus-guide/map02_02.html">アクセス</a> <a href="https://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_55_j.html">キャンパスマップ</a><br />
<br />
【タイムテーブル】<br />
<b>13:00-14:30</b><br />
<b>基調講演</b><br />
ダドリー・アンドリュー(イェール大学)「この残酷な世界をめぐるバザンの統合的パースペクティヴ」<br />
Dudley Andrew (Yale University), “Bazin’s Integral Perspective on Our Cruel World”<br />
<br />
<b>14:45-16:15</b><br />
<b>第一部 ラウンドテーブル「バザンのアクチュアリティ」</b><br />
野崎歓(東京大学)/濱口竜介(映画監督)/三浦哲哉(青山学院大学)/ダドリー・アンドリュー<br />
Kan Nozaki (University of Tokyo), Ryusuke Hamaguchi (Film Director), Tetsuya Miura (Aoyama Gakuin University), Dudley Andrew<br />
<br />
<b>16:30-18:30</b><br />
<b>第二部 研究発表「バザン研究の現在」</b><br />
堀潤之(関西大学)「バザン以前のバザン――「写真映像の存在論」草稿を読む」<br />
Junji Hori (Kansai University), “Bazin Before Bazin: Reading the Manuscript of ‘Ontology of Photographic Image’ ”<br />
<br />
角井誠(首都大学東京)「俳優の逆説――アンドレ・バザンの演技論」<br />
Makoto Sumii (Tokyo Metropolitan University), “Paradox of the Actor: Bazin on Film Acting”<br />
<br />
伊津野知多(日本映画大学)「存在に触れるまなざし――観客論としてのバザン的リアリズム」<br />
Chita Izuno (Japan Institute of the Moving Image), “Looking Is Touching: Bazin’s Realism as Theory of Spectatorship”<br />
<br />
総合司会:野崎歓<br />
Moderator: Kan Nozaki<br />
<br />
入場無料、事前予約不要<br />
日本語・英語(通訳あり)</div>
<div style="text-align: center;">
<div style="text-align: left;">
<br /></div>
</div>
<b><br /></b>
<br />
<div style="text-align: center;">
<b>パート2「映画とアダプテーション――アンドレ・バザンを中心に」</b></div>
<br />
<div style="background: #f9f9f9; border-radius: 10px; border: 3px dotted #999999; padding: 15px;">
【日時】2018年12月20日(木) 14:00-17:00<br />
【会場】山形大学人文社会科学部1号館3階 301教室 <a href="http://www-h.yamagata-u.ac.jp/access.html">アクセス</a> <a href="http://www-h.yamagata-u.ac.jp/student/campus_map.html">キャンパスマップ</a><br />
<br />
【タイムテーブル】<br />
<b>14:00-15:00</b><br />
<b>講演</b><br />
ダドリー・アンドリュー(イェール大学)「アダプテーションからエクリチュールへ――アンドレ・バザンの成熟」<br />
Dudley Andrew (Yale University), “From Adaptation to Ecriture: the Maturity of André Bazin”<br />
<br />
<b>15:10-17:00</b><br />
吉村和明(上智大学)「可能性としてのアダプテーション――ロベール・ブレッソン『ブローニュの森の貴婦人たち』をめぐって」<br />
Kazuaki Yoshimura (Sophia University), “The Possiblility of Adaptation: On Robert Bresson's Les Dames du bois de Boulogne”<br />
<br />
須藤健太郎(首都大学東京)「「不純な映画のために」の仮想敵」<br />
Kentaro Sudoh (Tokyo Metropolitan University), “What Does ‘For an Impure Cinema’ Argue Against? ”<br />
<br />
大久保清朗(山形大学)「忠実さをめぐって――フランソワ・トリュフォー「フランス映画のある種の傾向」におけるアダプテーション批判」<br />
Kiyoaki Okubo (Yamagata University), “Adaptation and Fidelity: Truffaut and Bazin in ‘A Certain Tendency of French Cinema’ ”<br />
<br />
司会:野崎歓(東京大学)<br />
Moderator: Kan Nozaki (University of Tokyo)
<br />
<br />
入場無料、事前予約不要<br />
日本語・英語(通訳あり)</div>
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhXfC6mfxBKHMMVs2EKuxstX1G_JTV4_T2iXzJ7GkUSzSaKLpbyK4F7ckIq6MGbrEsgmmgB6GK8TkUfvvqkTWGCfCb4PeKGY5ZcfhIIxpsnP4cVfrWXCozZsq8Pogr4AyW0U4INzeAF-0E/s1600/Bazin100_Fryer1.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1133" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhXfC6mfxBKHMMVs2EKuxstX1G_JTV4_T2iXzJ7GkUSzSaKLpbyK4F7ckIq6MGbrEsgmmgB6GK8TkUfvvqkTWGCfCb4PeKGY5ZcfhIIxpsnP4cVfrWXCozZsq8Pogr4AyW0U4INzeAF-0E/s640/Bazin100_Fryer1.jpg" width="452" /></a></div>
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiu7XE9COy1Pbu5nZqJLa_wPzZ5OCYAs1qOOHTbjL1flwjhjHtbVPiC1LteAe0ahjDjSBYlHSLfOjlAT95-VarMQ5k8x3OMUNUhWo8vLfRWLMvhlOu5gohLztDQ-agJZ42wZlDnYlnW9j0/s1600/Bazin100_Fryer2.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1133" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiu7XE9COy1Pbu5nZqJLa_wPzZ5OCYAs1qOOHTbjL1flwjhjHtbVPiC1LteAe0ahjDjSBYlHSLfOjlAT95-VarMQ5k8x3OMUNUhWo8vLfRWLMvhlOu5gohLztDQ-agJZ42wZlDnYlnW9j0/s640/Bazin100_Fryer2.jpg" width="452" /></a></div>
<br />CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-33153162159203125952018-10-09T16:25:00.000+09:002018-10-09T21:28:44.548+09:00バザン生誕100周年記念プレイベント「バザン・レリス・闘牛」 アンドレ・バザン研究会では、バザン生誕100周年記念プレイベントとして、来る2018年11月11日(日)に山形大学にて、 <b>「バザン・レリス・闘牛」</b>と題し、映画『闘牛』の上映とワークショップを開催いたします。本イベントは、前日の11月10日に山形大学にて開催される<a href="https://www.repre.org/">表象文化論学会</a>第13回研究発表集会の関連イベントでもあります。<br />
<br />
ドキュメンタリー映画『闘牛』<i>La course de taureaux</i> (日本未公開、1951)は、ジャン・ルノワール作品やレネ、トリュフォー、ゴダールらのヌーヴェル・ヴァーグ作品のプロデューサーとして知られるピエール・ブロンベルジェの唯一の長篇監督作品で、ナレーション原稿をミシェル・レリスが書いています。今回、新たに作成した日本語字幕付きでの上映となります。<br />
<br />
レリスのテクストは、1991年にフランスで出版され(Michel Leiris, <i><a href="https://www.amazon.fr/dp/2907374389">La Course de Taureaux</a></i>, Fourbis, 1991)、2006年に再版されています(<i><a href="https://www.amazon.fr/dp/2844901824/">La Course de Taureaux</a></i>, Éditions Verdier, 2006)。前者に基づく林栄美子氏による翻訳(「<a href="http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10030184-20020331-0165">闘牛(第一部)</a>」、「<a href="http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10030184-20020930-0086">闘牛(第二部)</a>」、『日吉紀要・フランス語フランス文学』 第34号/35号、2002年)は、リンク先の機関リポジトリで入手できます。<br />
<br />
また、バザンがこの作品にインスパイアされて「すべての午後の死」という、映画と死をめぐる短いながらも鋭利なテクストを書いたこともよく知られています(邦訳は『映画とは何かⅡ 映像言語の問題』小海永二訳、美術出版社、1970年に所収)。<br />
<br />
映画上映後には、フランス文学と映画に造詣が深く、レリスの『オランピアの頸のリボン』 (人文書院、1999年)および『ゲームの規則Ⅳ 囁音』(平凡社、2018年)の訳者でもいらっしゃる谷昌親氏の映画解説を行います。<br />
<br />
それに続くワークショップでは、『ミシェル・レリス日記』(全2巻、みすず書房、2001-2002年)やレリス『ゲームの規則Ⅲ 縫糸』(平凡社、2018年)ほかの訳者でもいらっしゃるフランス文学者の千葉文夫氏のほか、当研究会の大久保清朗、角井誠による研究発表およびディスカッションを行います。<br />
<br />
入場無料、事前予約不要のイベントです。皆様のご参加をお待ちしております。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
*</div>
<br />
【日時】2018年11月11日(日)<br />
【場所】山形大学(小白川キャンパス) <a href="http://www-h.yamagata-u.ac.jp/access.html">アクセス</a><br />
人文社会科学部1号館3階301講義室 <a href="http://www-h.yamagata-u.ac.jp/student/campus_map.html">キャンパスマップ</a><br />
<br />
【スケジュール】<br />
10:00<br />
<ul>
<li>上映前挨拶(大久保清朗)</li>
</ul>
<br />
10:05-11:20<br />
<ul>
<li>映画『闘牛』上映</li>
</ul>
<br />
11:30-12:00 映画解説<br />
<ul>
<li>谷昌親「映画的生成変化としての闘牛――映画『闘牛』をめぐるA.M.P.M」</li>
</ul>
<br />
13:00-14:00 ワークショップ発表<br />
<ul>
<li>大久保清朗「劇場としてのドキュメンタリー」</li>
<li>千葉文夫「ミシェル・レリスによる闘牛技、1937-51年」</li>
<li>角井誠 「「存在論的猥褻さ」をめぐって──アンドレ・バザンにおける死の表象」</li>
</ul>
<br />
14:00-14:30 ディスカッション&質疑応答<br />
<ul>
<li>千葉文夫、角井誠、大久保清朗(司会:谷昌親)</li>
</ul>
<br />
主催:アンドレ・バザン研究会<br />
共催:表象文化論学会、山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhiknM9XXKsEls4vzABGirYcrhTvKf9_1GF2ZL4gI72rgV3ZDJ3acTPiWuXU1wpyneB9yqt4KCErgmxrCjlN19Sg4HLdWBbKiQ1VPLtRzYieCPmV-H7QWXC53TIcefQIrdQpoSmFvT_eBY/s1600/Bazin_Leiris.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1131" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhiknM9XXKsEls4vzABGirYcrhTvKf9_1GF2ZL4gI72rgV3ZDJ3acTPiWuXU1wpyneB9yqt4KCErgmxrCjlN19Sg4HLdWBbKiQ1VPLtRzYieCPmV-H7QWXC53TIcefQIrdQpoSmFvT_eBY/s640/Bazin_Leiris.jpg" width="451" /></a></div>
<br />CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-58756415976353729662018-07-15T21:55:00.000+09:002018-11-12T10:47:16.525+09:00Presentation of the André Bazin Workshop<h3>
Presentation</h3>
<div style="text-align: justify;">
In June 2016, we launched the <b>André Bazin Workshop</b> at the <a href="http://www-hs.yamagata-u.ac.jp/laboratory/picture_research/">Institute for Visual Arts and Science</a>, Yamagata University, Faculty of Humanities and Social Sciences. The group includes ten researchers from various institutions in Japan, who are re-evaluating the entire critical project of the pre-eminent French film critic.
<br />
<br />
One of our principal activities is the publication of an annual peer-reviewed academic journal <b><i>Cahiers André Bazin</i></b>, with original essays on Bazin, new translations of relatively unknown texts written by Bazin himself, and other authors’ essays which have been central to our understanding of Bazin. Our inaugural issue in 2017 focused on a reconsideration of the <b>“politique des auteurs,”</b> introducing—for the first time—seven essential texts on auteur theory hitherto untranslated into Japanese.<br />
<br />
In our second issue in 2018, we have thoroughly examined Bazin’s foundational concept of <b>“Ontological Realism,”</b> presenting the first translation of the recently unearthed manuscript of Bazin’s essay “Ontology of the Photographic Image,” with detailed annotation.<br />
<br />
In November and December 2018, we are holding symposiums at Yamagata University and the University of Tokyo to celebrate the critic’s centenary. We are delighted to announce that <b><a href="https://filmstudies.yale.edu/people/dudley-andrew">Professor Dudley Andrew</a></b> will be our keynote speaker in Yamagata and Tokyo. The third issue of the journal will be closely linked to these events.</div>
<br />
<h3>
Members of the Workshop (in alphabetical order by surname)</h3>
<a href="http://yudb.kj.yamagata-u.ac.jp/html/200000102_en.html">Goda, Yosuke</a> (Yamagata University)<br />
<a href="http://gakujo.kansai-u.ac.jp/profile/en/c19fS288e5ffdbb3Zd7ea890a'.html">Hori, Junji</a> (Kansai University)<br />
<a href="http://www.eiga.ac.jp/course/professor/izuno.html">Izuno, Chita</a> (Japan Institute of the Moving Image)<br />
<a href="http://yudb.kj.yamagata-u.ac.jp/html/200000123_en.html">Kakinami, Ryosuke</a> (Yamagata University)<br />
<a href="https://www.h.kyoto-u.ac.jp/en_f/faculty_f/114_kinoshita_c_0/">Kinoshita, Chika</a> (Kyoto University)<br />
<a href="http://raweb1.jm.aoyama.ac.jp/aguhp/KgApp?kyoinId=ymdigbosggo&Language=2">Miura, Tetsuya</a> (Aoyama Gakuin University)<br />
<a href="https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/en/people/people000215.html">Nozaki, Kan</a> (University of Tokyo)<br />
<a href="http://yudb.kj.yamagata-u.ac.jp/html/100000496_en.html">Okubo, Kiyoaki</a> (Yamagata University)<br />
<a href="https://researchmap.jp/kentarosudoh/">Sudoh, Kentaro</a> (Tokyo Metropolitan University)<br />
<a href="https://researchmap.jp/makotosumii/?lang=english">Sumii, Makoto</a> (Tokyo Metropolitan University)<br />
<br />
<h3>
<b>Table of Contents of <i>Cahiers André Bazin</i></b></h3>
<b><i>Cahiers André Bazin</i>, <a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2017/05/1.html">Vol.1</a>, edited by Kiyoaki Okubo and Junji Hori, 2017</b><br />
<div style="background: #f9f9f9; border-radius: 10px; border: 3px dotted #999999; padding: 15px;">
[Special Feature] <b>Rethinking the “Politique des auteurs”</b><br />
<ul>
<li>Alexandre Astruc, “La naissance de la nouvelle avant-garde: la caméra-stylo,” translated by Junji Hori</li>
<li>Roger Leenhardt, “À bas Ford ! Vive Wyler !”, translated by Junji Hori</li>
<li>André Bazin, “Rue de l’Estrapade,” translated by Makoto Sumii</li>
<li>François Truffaut, “Ali Baba et la ‘politique des auteurs’”, translated by Kiyoaki Okubo</li>
<li>André Bazin, “Qui est le véritable auteur du film ?”, translated by Kiyoaki Okubo and Junji Hori</li>
<li>André Bazin, “De la politique des auteurs,” translated by Kan Nozaki</li>
<li>Andrew Sarris, “Note on the Auteur Theory, 1962,” translated by Chika Kinoshita</li>
</ul>
*All the translations are accompanied by introductory essays by the translator.</div>
<br />
<b><i>Cahiers André Bazin</i>, <a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2018/04/2.html">Vol.2</a>, edited by Junji Hori, Chita Izuno, Makoto Sumii, 2018</b><br />
<div style="background: #f9f9f9; border-radius: 10px; border: 3px dotted #999999; padding: 15px;">
[Special Feature] <b>The Ontological Realism</b><br />
<ul>
<li>André Bazin, “Pour une esthétique réaliste," translated by Junji Hori</li>
<li>André Bazin, “À propos de réalisme,” translated by Junji Hori</li>
<li>André Bazin, “Ontologie de l’image photographique (premier état)”, translated and annotated by Junji Hori</li>
<li>Junji Hori, “Reading ‘The Ontology of the Photographic Image’ as a Palimpsest: Malraux, Sartre, Bazin before Bazin"</li>
<li>Dudley Andrew, “Ontology of a Fetish,” translated by Kentaro Sudoh</li>
<li>Hideyuki Nakamura, “Notes on André Bazin’s Concept of ‘présence’”</li>
<li>Tom Gunning, “The World in Its Own Image: Myth of Total Cinema,” translated by Tetsuya Miura</li>
<li>André Bazin, “La fin du montage,” translated by Chita Izuno</li>
<li>André Bazin, “Le Procès du Cinémascope: le Cinémascope n’a pas tué le gros plan,” translated by Chita Izuno</li>
<li>Chita Izuno, “André Bazin’s Multi-Layered Concept of Realism”</li>
</ul>
[Feature] <b>Rethinking the “Politique des auteurs” Part II</b><br />
<ul>
<li>François Truffaut, “Sir Abel Gance,” translated by Kiyoaki Okubo</li>
<li>François Truffaut, “Abel Gance, désordre et génie,” translated by Kiyoaki Okubo</li>
<li>André Bazin, “Réflexion sur la critique,” translated by Kan Nozaki</li>
</ul>
*All the translations are accompanied by introductory essays by the translator.
</div>
CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-61967122269027617922018-04-11T13:01:00.001+09:002021-04-16T09:52:28.185+09:00『アンドレ・バザン研究』第2号の入手方法<b><span style="color: red;">【2021年4月16日追記】。この<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.com/2021/04/2.html">エントリー</a>に記載のとおり、残部僅少につき、本日をもって『アンドレ・バザン研究』第2号の頒布は終了いたしました。今後、以下の手続きに沿って申し込みをしても、頒布しかねますのでご留意ください。</span></b><br /><div style="text-align: justify;"><br /></div><div style="text-align: justify;"> 『アンドレ・バザン研究』<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.jp/2018/04/2.html">第2号</a>は非売品で、国会図書館および一部の大学図書館を除いて、一般に流通しません。</div>
<div style="text-align: justify;">
<br /></div>
<div style="text-align: justify;">
入手を希望される方には、実費(送料分)で送付いたします。<b>任意の封書に①『アンドレ・バザン研究』第2号を希望する旨のメモ、②送付希望先の住所・氏名を記載した<a href="https://www.post.japanpost.jp/service/smartletter/index.html">スマートレター</a>(180円)の2点を封入のうえ、以下の宛先に郵送</b>してください(往信の切手代はご負担ください)。折り返し、封入いただいたスマートレターにて第2号をご送付いたします。</div>
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;">
<b>【送付先】</b><br />
〒990-8560<br />
山形県山形市小白川町1-4-12<br />
山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内 アンドレ・バザン研究会</div>
<br />
※スマートレターは全国の郵便局等でお買い求めください。スマートレター以外の方法による送付はいたしかねますので、必ずスマートレターをご用意ください。<br />
※発送作業は研究所の所員が行うため、出張などにより発送まで10日間程度の期間をいただくこともあります。また、授業期間外の場合、発送まで大幅に時間がかかることもあります。どうかご了承ください。<br />
※この<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.jp/2017/11/1.html">エントリー</a>に記載のとおり、<b><span style="color: red;">『アンドレ・バザン研究』第1号の頒布は終了しております</span></b>ので、ご留意ください。<br />
※残部僅少となった場合、このブログでも告知し、受付を中止します。<br />
<div style="text-align: right;">
以上</div>
CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-66992452746942127332018-04-03T18:45:00.000+09:002019-04-01T09:29:04.396+09:00『アンドレ・バザン研究』第2号の刊行 2016年6月に<a href="https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/laboratory/picture/">山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所</a>内に発足したアンドレ・バザン研究会では、その2017年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第2号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=堀潤之、伊津野知多、角井誠、2018年3月31日発行、A5判180頁、ISSN 2432-9002)。<b style="color: red;">なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします</b>(【4/15追記】入手方法については<a href="http://cahiersandrebazin.blogspot.jp/2018/04/2_11.html">こちらのエントリー</a>をご覧ください)。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiACs5r82Tf23zZBpi76wjOUx2U83OyKARcWoR2foZh8Pp9gsf6cB6rhH7jC_bee0hD6G1vlDIlo-EWZhXufENAZelh1B_GYeDXwDNfZ24iFZcRaOIMYOz6hyphenhyphen4oQ1tvw-h_FFyDvw0nN94/s1600/AB02_cover_h1.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1129" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiACs5r82Tf23zZBpi76wjOUx2U83OyKARcWoR2foZh8Pp9gsf6cB6rhH7jC_bee0hD6G1vlDIlo-EWZhXufENAZelh1B_GYeDXwDNfZ24iFZcRaOIMYOz6hyphenhyphen4oQ1tvw-h_FFyDvw0nN94/s640/AB02_cover_h1.jpg" width="449" /></a></div>
<br />
特集「存在論的リアリズム」では、バザンの最もよく知られた文章の一つ「写真映像の存在論」に特に光を当てています。「写真映像の存在論[草稿]」をはじめとする未邦訳のテクスト5篇を紹介するとともに、研究会会員の論考2篇(堀潤之、伊津野知多)を掲載、さらに会員外から中村秀之氏に研究ノートを寄稿いただいたほか、ダドリー・アンドリュー氏、トム・ガニング氏による論考を訳出しています。<br />
<br />
前号の特集「作家主義再考」を引き継ぐ小特集「作家主義再考2」では、フランソワ・トリュフォーのアベル・ガンス論2篇(うち一篇では、トリュフォーが本文中でおそらく初めて「作家主義」という言葉を使っている)に加え、バザンの晩年のテクスト「批評に関する考察」(これも本邦初訳)を掲載しています。<br />
<br />
目次は以下の通りです。<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid #ccc; padding: 10px;">
<b>[特集]存在論的リアリズム</b><br />
アンドレ・バザン「現実主義的な美学のために」(堀潤之゠訳)<br />
アンドレ・バザン「リアリズムについて」(堀潤之゠訳)<br />
アンドレ・バザン「写真映像の存在論[草稿]」(堀潤之゠訳・注釈)<br />
堀潤之「パランプセストとしての「写真映像の存在論」――マルロー、サルトル、バザン以前のバザン」<br />
ダドリー・アンドリュー「フェティッシュの存在論」(須藤健太郎゠訳)<br />
中村秀之「アンドレ・バザンの« présence »について[研究ノート]」<br />
トム・ガニング「自身の似姿の中の世界――完全映画の神話」(三浦哲哉゠訳)<br />
アンドレ・バザン「モンタージュの終焉」(伊津野知多゠訳)<br />
アンドレ・バザン「シネマスコープ裁判――シネマスコープはクロースアップを殺していない」(伊津野知多゠訳)<br />
伊津野知多「アンドレ・バザンのリアリズム概念の多層性」<br />
<br />
<b>[小特集]作家主義再考2</b><br />
フランソワ・トリュフォー「アベル・ガンス卿」(大久保清朗゠訳)<br />
フランソワ・トリュフォー「アベル・ガンス、無秩序と天才」(大久保清朗゠訳)<br />
アンドレ・バザン「批評に関する考察」(野崎歓゠訳)</div>
<br />
巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介になっているので、以下、その全文を掲げておきます。<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid #ccc; padding: 10px;">
「草稿」に誘われて――第二号イントロダクション<br />
<div style="text-align: right;">
堀潤之</div>
<br />
<div style="text-align: justify;">
『映画とは何か』の冒頭に収められている論考「写真映像の存在論」が、バザンのあらゆる文章のうち、最も人口に膾炙したものであることはまず疑いあるまい。とりわけ、写真映像が人の手を介さずに自動的に生成されることによって本質的な客観性を持つという中心的なテーゼは、それがパースのいうインデックス的記号と結びつけて論じられてきたことも含め、芸術批評に関心を持つ多くの読者にとって馴染み深いはずだ。だが、一九四五年に世に出たこの短いテクストは、本当に読まれていると言えるだろうか。「写真映像の存在論」がアリバイ的にタイトルだけ言及され、その片言隻語が我田引水に用いられるさまを私たちは幾度となく目にしてきたのではなかったか。</div>
<div style="text-align: justify;">
<br /></div>
<div style="text-align: justify;">
今から三年近く前、そんなことを漠然と考えながら、バザンが一九五〇年に上梓した最初の著書『<a href="http://www.inscript.co.jp/b2/978-4-900997-61-5">オーソン・ウェルズ</a>』(インスクリプト刊、二〇一五年)の訳出を終えようとしていた折、フランスの映画批評誌『トラフィック』<a href="http://www.gallimard.fr/Catalogue/P.O.L/Revue-Trafic/Trafic95">九五号</a>(二〇一五年秋)に掲載された「写真映像の存在論[草稿]」(本号に訳出)を手に取った。一読してたちまち、私たちの知らないバザンが、自身の代名詞となるような決定的なテクストを書こうと奮闘している過程に魅了され、映像をめぐる新たな思想が生まれつつある場に立ち会っているような鈍い興奮さえ覚えた。本号の特集「存在論的リアリズム」の淵源にあるのは、「草稿」との出会いによってもたらされた、こうした感慨である。</div>
<div style="text-align: justify;">
<br /></div>
<div style="text-align: justify;">
「草稿」が「写真映像の存在論」の似て非なる分身、それゆえに不気味な似姿であるとすれば、特集の冒頭に配置した二篇の小論は、「バザン以前のバザン」が何を研究課題として捉え(「現実主義的な美学のために」)、「写真映像の存在論」の着想をどのように作品分析と結びつけようとしていたか(「リアリズムについて」)を明瞭に示してくれるだろう。「草稿」に続く拙論は、バザンに流れ込んでいる知的系譜を改めて整理したうえで、「草稿」を綿密に読み解いたおそらく世界初の試みである。</div>
<div style="text-align: justify;">
<br /></div>
<div style="text-align: justify;">
私が出会った「草稿」は誌面に書き起こされた字面にすぎず、そこにはオリジナルの複写であればまだ持ち得たかもしれないアウラの欠片もない。だが、バザン研究の第一人者であるダドリー・アンドリュー氏が形見として一九七四年に譲り受けたサルトルの『想像力の問題』の中からたまたま発見したという、バザン自身によると思われるタイプ打ちの読書メモ(本誌五九頁に複製)には、かすかなアウラが漂っているかもしれない。アンドリュー氏は、自身にとって「フェティッシュ」と化したこのたった一枚の紙片を、バザンがサルトルの呪縛の中で写真、映画、テレビの比較考察を試みたものとして鮮やかに読み解いていく。この読解への返歌とも言える中村秀之氏の研究ノートは、サルトルの想像力論とデリダの現前性批判を視野に入れつつ、「写真映像の存在論」のよく知られた一節を厳密に注解しながら、最終的には、映像が「人類の歴史的投企の所産」であることを等閑視するバザン自身の立論の弱点を指摘している。</div>
<div style="text-align: justify;">
<br /></div>
<div style="text-align: justify;">
「完全映画の神話」は、「写真映像の存在論」と並んで非常に有名でありながら、論じられる機会は圧倒的に少ない。この論考は、ジョルジュ・サドゥールが映画以前の諸装置を実証的かつ目的論的に紹介した『世界映画全史』第一巻(一九四六年)の書評として書かれながら、著者の意図を裏切ってそこに「自身の似姿の中の世界」の再創造という神話の作用を見出すという軽妙洒脱な論考である。それを、初期映画研究の泰斗であるトム・ガニング氏がその後の研究のアプローチとの差異を剔出しつつアクロバティックに読み解いていくさまは、本号のいちばんの読みどころと言ってもいいかもしれない。</div>
<div style="text-align: justify;">
<br /></div>
<div style="text-align: justify;">
現実世界をそっくりそのまま再現するという神話には、未来の映像テクノロジーの発展が潜在的に含み込まれている。バザンの時代、その部分的な実現は特にシネマスコープによってもたらされた。一九五〇年代のバザンが当時のニューメディアについて精力的に書いていた記事の中から選んだ二篇の小論を読むことで、彼がどのような観点でシネマスコープにリアリズムの拡張を見て取っていたかがはっきりするはずだ。</div>
<div style="text-align: justify;">
<br /></div>
<div style="text-align: justify;">
特集のタイトルに冠した「存在論的リアリズム」という言葉は、実はバザン自身はほとんど用いておらず(管見の限りでは『オーソン・ウェルズ』に一箇所、用例がある)、本来であれば、「存在論」と「リアリズム」というそれぞれの用語の使い方を十分に吟味する必要があるだろう。その第一歩とも言いうる伊津野知多氏の論考は、「存在論的リアリズム」を含む複数のリアリズム概念がバザンの中でどのように折り重なっているかを明晰に再構成している。</div>
<div style="text-align: justify;">
<br /></div>
<div style="text-align: justify;">
小特集「作家主義再考2」は、前号の特集を継続して、異形の映画作家と言うべきアベル・ガンスに焦点を当てた。もはや時代遅れであると囁かれていたサイレント期からの偉大な先達を熱烈に擁護する若きトリュフォーの舌鋒には、今なお迫力がある。ガンスを取り上げたのは、「アベル・ガンス卿」に「作家主義」の語がおそらく初めて登場するからでもある。さらに、本号を締め括る文章として、バザンの実質的な白鳥の歌と言ってよい「批評に関する考察」を置いた。「作家主義」的な批評の創始者とも思われがちなバザンが、批評をより広大な営為として捉え、むしろ「作家主義」に最後まで留保を付けていた点には、もっと注意が払われるべきである。</div>
<div style="text-align: justify;">
<br /></div>
<div style="text-align: justify;">
二〇一八年末には、生誕百周年を迎えたバザンをめぐるシンポジウムを開催し、アンドリュー氏を招聘することが決まっている。次号はその記録を中心に編まれることになるだろう。</div>
</div>
<br />
続いて、角井誠氏による編集後記の全文です。<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid #ccc; padding: 10px;">
「批評家の役割とは存在しない真実を銀の盆にのせて運ぶことではなく、芸術作品の与える衝撃を、読者の知性と感性のできるかぎり遠くにまで届かせることなのである」(本誌一七一頁)――「批評に関する考察」を締め括るこの一節に初めて触れたのは、学部生の頃、背伸びをして読んでいたダドリー・アンドリューによる評伝のなかでのことだったろうか。今よりもずっと頼りないフランス語能力しか持ちあわせていなかったけれど、この一節に出会ったときの震えるような衝撃は今なお私のなかに谺している。私が今こうしてジャン・ルノワールを研究しているのも、バザンのあの美しい「フランスのルノワール」というテクストが私にもたらしたショックの産物以外の何物でもないのだ。もちろん、自分自身がそれを実践できているとは言わないし、今となっては批評に関するバザンの主張すべてに首肯するわけでもないが、先の言葉は今なお私の原点であり、私を導く大切な言葉であり続けている。その一節がこうして野崎歓氏によって日本語に訳されたことを心の底からうれしく思う。バザンのテクストが贈り届ける衝撃――作品の衝撃と彼の思考の衝撃――を読者のなかへできるかぎり遠くまで届かせること、それが本研究会の使命ではないだろうか。<br />
<br />
本号の特集「存在論的リアリズム」については、編者の代表ともいうべき堀潤之氏の巻頭言に詳しいので、ここでは深く立ち入らない。堀、伊津野両会員による緻密な論考、中村秀之氏の研究ノート(と呼ぶにはあまりに濃密なテクスト)、さらにはアンドリューやガニングといった海外の大御所の刺激的な論考の翻訳が並ぶ充実した内容となったことを喜ばずにはいられない。<br />
<br />
今回は裏方に徹することとなったので、ここに至る作業について少し触れておきたい。まず本号の準備のため非公開の研究会を催し、堀氏、伊津野氏、角井が各々の研究の経過を報告するとともに、バザン研究の現状について情報を共有する作業を行った。夏の盛りに青山学院大学の瀟洒な一室で繰り広げられた報告とそれに続く討論は、本号にとって、また本研究会にとってきわめて有意義なものであったと思う。また前号に引き続き、学術誌としての質を担保するため論考や翻訳の綿密なピアレビューも行った(論考については査読を行った)。ここでの「綿密な」という形容詞は文字通りに受け止めてもらって差し支えないと思う。じっさい執筆者や訳者と査読者、編集員のあいだではバザンの解釈や翻訳の細部をめぐって幾度もやりとりが重ねられた。編集作業に携わるなか、何度も読んでわかったつもりになっていたテクストが、精緻で大胆な読解を経て、新たな相貌で現れてくるのに立ち会うのはとてもスリリングな体験だった。どの論考もぜひご一読頂きたい。いずれも今後バザンのリアリズム論について考えるさいの必読文献となるのではないかと思う。<br />
<br />
とはいえ、われわれのバザン再考の作業はまだ端緒に就いたばかりである。二〇一八年はいよいよ(!)バザンの生誕百周年。次の百年に向けて、バザンの衝撃をずっと遠くまで届けられるよう一層励んでゆきたい。(角井誠)</div>
<div style="text-align: right;">
(J.H.)</div>
CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-21495946286455437512017-11-09T21:46:00.000+09:002017-11-09T21:46:31.300+09:00『アンドレ・バザン研究』第1号 頒布終了のお知らせ 『アンドレ・バザン研究』第1号は<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.jp/2017/05/blog-post_8.html">このエントリー</a>に記載の通り、希望者に実費で頒布しておりましたが、好評につき残部がほぼ尽きましたので、本日をもって頒布を終了いたします。今後、増刷の予定もありません。<br />
<br />
なお、第1号は国会図書館には所蔵されています(<a href="http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I028037402-00">こちら</a>を参照)。主要な大学図書館、および映画研究関係の研究室にも送付しておりますが、オープンな形での登録・配架にまで至っているのは、現時点では名古屋大学附属図書館だけのようです(<a href="http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB24348050">こちら</a>を参照)。<br />
<br />
現在、2018年度末の刊行に向けて、第2号も鋭意製作中ですので、どうぞご期待ください。<br />
<br />
<div style="text-align: right;">
(J.H.)</div>
CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-87103746354821791712017-08-13T22:48:00.000+09:002017-08-13T23:22:46.865+09:00アンドレ・バザン関連書籍の書評(転載) 2015年は、アンドレ・バザン『映画とは何か』の新訳(野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳)が岩波文庫(上下巻)で刊行されただけでなく、野崎歓によるバザン論を集成した『アンドレ・バザン――映画を信じた男』(春風社)と、バザンが1950年に初めて出版した単行本『オーソン・ウェルズ』(堀潤之訳、インスクリプト)も世に出るなど、バザン関連書籍の当たり年でした。<br />
<br />
ここに野崎歓『アンドレ・バザン』の堀潤之による書評(『<a href="http://dokushojin.com/">週刊読書人</a>』<a href="http://www.dokushojin.co.jp/?pid=92654446">2015年8月21日号</a>)と、バザン『オーソン・ウェルズ』の野崎歓による書評(同<a href="http://www.dokushojin.co.jp/?pid=98673369">2016年2月12日号</a>)を転載します。<br />
<br />
なお、野崎歓『アンドレ・バザン』をめぐっては、野崎歓・四方田犬彦・中条省平の三氏による鼎談「映画論を超えた「事件」――バザンの潜在的可能性を顕在化させる試み」(『<a href="http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/">図書新聞</a>』3218号、2015年8月8日)もあります。<br />
<br />
バザン『オーソン・ウェルズ』に関しては、他にも『<a href="http://www.kinejun.com/kinejun/tabid/62/Default.aspx">キネマ旬報</a>』1711号(2016年3月上旬号)の吉田広明氏による書評、『図書新聞』3273号の<a href="http://www1.e-hon.ne.jp/content/toshoshimbun_3273_3-1.html">谷昌親氏による書評</a>、『映像学』97号(2017年)の<a href="http://doi.org/10.18917/eizogaku.97.0_96">中村秀之氏による書評</a>(リンク先のPDFで閲覧可能)もぜひご参照ください。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi2fFuItg-7XMsytsflD8ds59BgtGF_5R7bCMP4f1ULe6mQ0HuCKmmfLLR9ethXYnBAnCWdFtlKrukzIi_vKO0J1dSEpqx2nzck5OHFc_c54owjtU43sls2JtT6POCaXEW-O4qeJrsXL2Q/s1600/%25E9%2587%258E%25E5%25B4%258E%25E6%25AD%2593%25E3%2580%258E%25E3%2582%25A2%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2588%25E3%2582%2599%25E3%2583%25AC%25E3%2583%25BB%25E3%2583%258F%25E3%2582%2599%25E3%2582%25B5%25E3%2582%2599%25E3%2583%25B3%25E3%2580%258F%25E6%259B%25B8%25E8%25A9%2595.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1085" data-original-width="1339" height="323" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi2fFuItg-7XMsytsflD8ds59BgtGF_5R7bCMP4f1ULe6mQ0HuCKmmfLLR9ethXYnBAnCWdFtlKrukzIi_vKO0J1dSEpqx2nzck5OHFc_c54owjtU43sls2JtT6POCaXEW-O4qeJrsXL2Q/s400/%25E9%2587%258E%25E5%25B4%258E%25E6%25AD%2593%25E3%2580%258E%25E3%2582%25A2%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2588%25E3%2582%2599%25E3%2583%25AC%25E3%2583%25BB%25E3%2583%258F%25E3%2582%2599%25E3%2582%25B5%25E3%2582%2599%25E3%2583%25B3%25E3%2580%258F%25E6%259B%25B8%25E8%25A9%2595.jpg" width="400" /></a></div>
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<br /></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi4mWwL-v5vG6GNtH_mrBGtzZJzc-1M34XIv3ENIF9zCt2J_VCROVAgeJi2Yreq52QjYaPe6sDg0M97Y6Gc3KrmQ-0B_s34zWS5YWLh__52A9mIrIBVa8r9HpQUSSVJDNfHinlClTnY4Pw/s1600/OW_Review.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1226" data-original-width="831" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi4mWwL-v5vG6GNtH_mrBGtzZJzc-1M34XIv3ENIF9zCt2J_VCROVAgeJi2Yreq52QjYaPe6sDg0M97Y6Gc3KrmQ-0B_s34zWS5YWLh__52A9mIrIBVa8r9HpQUSSVJDNfHinlClTnY4Pw/s400/OW_Review.jpg" width="270" /></a></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<br /></div>
<div style="text-align: right;">
(J.H.)</div>
<br />CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-42040395393266811652017-05-26T22:42:00.002+09:002017-05-26T22:42:17.152+09:00『アンドレ・バザン研究』第1号検討会のお知らせ2017年6月6日(火)に、<a href="https://sites.google.com/site/kyotofilmcolloquium/">京都大学映画コロキアム</a>の一環として、以下の通り、『アンドレ・バザン研究』第1号「特集=作家主義再考」検討会を開催します。入場無料・来聴歓迎です。お気軽にご参加ください。<br />
<br />
<b>京都大学映画コロキアム </b><br />
『アンドレ・バザン研究』第1号「特集=作家主義再考」検討会<br />
<br />
2017年6月6日(火)18:15-19:45<br />
<a href="http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/yoshida/map6r_ys.html">京都大学吉田南キャンパス</a><br />
吉田南総合館南棟334演習室<br />
<br />
<b>報告</b><br />
大久保清朗(山形大学、Skype参加)、堀潤之(関西大学)、木下千花(京都大学)<br />
<br />
<b>コメンテーター</b><br />
藤井仁子(早稲田大学)<br />
<br />
<b>概要</b><br />
2016年6月に山形大学人文学部附属映像文化研究所内に発足したアンドレ・バザン研究会では、その初年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第1号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=大久保清朗、堀潤之)。<br />
第1号は「作家主義再考」と銘打ち、「作家主義」に先だってアレクサンドル・アストリュックが発表した記念碑的批評「カメラ万年筆」論から、「作家主義」という言葉が初めて使われたフランソワ・トリュフォーの「アリババと「作家主義」」や、アンドレ・バザンが作家主義に対する留保を表明した長文論考「作家主義について」を経て、アンドリュー・サリスによるアメリカへの「作家理論」の導入まで、7本の論考の翻訳および解題(いずれも本邦初訳)を含んでいます。<br />
今回の検討会では、「作家主義」のフランスとアメリカにおける展開についての報告をふまえて、藤井仁子氏に「作家主義」の諸問題をめぐる包括的なコメントをいただきます。<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgGisPougMm7NuDOWtE3vQ0goURv-ISj1NZHNj5VK11mHwFuwejatOAsHdL15uqnGytKfA1O5XP_5agy3QAPmgl05M6lX_Mv65Kb9X7o8yQajV-A93mNcv6k14Lhk8gZBv2i1ghcyZIzkk/s1600/AB01_KFcolloquium_flyer.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1133" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgGisPougMm7NuDOWtE3vQ0goURv-ISj1NZHNj5VK11mHwFuwejatOAsHdL15uqnGytKfA1O5XP_5agy3QAPmgl05M6lX_Mv65Kb9X7o8yQajV-A93mNcv6k14Lhk8gZBv2i1ghcyZIzkk/s640/AB01_KFcolloquium_flyer.jpg" width="453" /></a></div>
<br />CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-54300981125342092592017-05-08T08:53:00.000+09:002017-05-08T08:53:43.559+09:00『アンドレ・バザン研究』第1号の刊行 2016年6月に<a href="http://www-h.yamagata-u.ac.jp/others/picture_top.html">山形大学人文学部附属映像文化研究所</a>内に発足したアンドレ・バザン研究会では、その初年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第1号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=大久保清朗、堀潤之、2017年3月31日発行、A5判116頁、ISSN 2432-9002)。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg7vmofC0oFQ1kohOp9CIR_27k6vt59oUuDOdaDRsgKc8ENQVdFcJscpp4-wQr_axGh-G4y4AYBvHoKPX35xDdEl8X1StSCkxiVwivoEmgmk3dOs-Dxk-IEZrHE5IbIUWXbzS_JlWPhShw/s1600/AB01_cover_h1_20170421.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg7vmofC0oFQ1kohOp9CIR_27k6vt59oUuDOdaDRsgKc8ENQVdFcJscpp4-wQr_axGh-G4y4AYBvHoKPX35xDdEl8X1StSCkxiVwivoEmgmk3dOs-Dxk-IEZrHE5IbIUWXbzS_JlWPhShw/s400/AB01_cover_h1_20170421.jpg" width="281" /></a></div>
<br />
内容は以下にみられる通り、1950年代の『カイエ・デュ・シネマ』誌において確立された「作家主義」la politique des auteursの先駆けからアメリカへの移植に至るまで、すべて本邦初訳により、古典的テクストを通覧するものになっています。各論考には解題も付されています。<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid #ccc; padding: 10px;">
大久保清朗「バザンの徴の下に――『アンドレ・バザン研究』創刊に寄せて」<br />
<br />
[特集]<b>作家主義再考</b><br />
<b>アレクサンドル・アストリュック</b>「新しいアヴァンギャルドの誕生――カメラ万年筆」(堀潤之訳)<br />
<b>ロジェ・レーナルト</b>「フォード打倒! ワイラー万歳!」(堀潤之訳)<br />
<b>アンドレ・バザン</b>「ジャック・ベッケル『エストラパード街』」(角井誠訳)<br />
<b>フランソワ・トリュフォー</b>「アリババと「作家主義」」(大久保清朗訳)<br />
<b>アンドレ・バザン</b>「誰が映画の本当の作者か」(大久保清朗・堀潤之訳)<br />
<b>アンドレ・バザン</b>「作家主義について」(野崎歓訳)<br />
<b>アンドリュー・サリス</b>「作家理論についての覚え書き、一九六二年」(木下千花訳)</div>
<br />
以下、巻頭言より、各論考の内容に簡潔に触れた部分の抜粋です(強調引用者)。<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid #ccc; padding: 10px;">
[……]「作家主義」の前史あるいはひとつの起源とされる<b>アレクサンドル・アストリュック</b>の<b>「新しいアヴァンギャルドの誕生――カメラ万年筆」</b>から本特集は始まる。「カメラ万年筆」論として名高いこの宣言文は、映画が「思考を表現する」言語となるべきであると述べている。そして<b>ロジェ・レーナルト</b>の<b>「フォード打倒! ワイラー万歳!」</b>は、スタイルの創造者として二人の監督を対照させながら、前者を「古典」時代の延長にすぎないとして退け、後者に「最新の傾向」を見出そうとする、挑発に満ちたエッセイである。<br />
それに続く<b>バザン</b>の<b>『エストラパード街』の映画評</b>と、<b>フランソワ・トリュフォー</b>の<b>「アリババと「作家主義」」</b>は、ジャック・ベッケルという同一の「作家」をめぐって、師弟関係にある両批評家の相互の立場を対照させつつ理解できる最適のテクストであろう。主題と演出との関係を重視するバザンに対し、あくまで演出の問題にこだわる弟子トリュフォー。後者の擁護顕揚において、管見では「作家主義」の語が初めて登場する。<br />
[……]バザンにとって「作者=作家」、あるいは「作家主義」とは何であったのか。その問いをめぐっては、二つの論考<b>「誰が映画の本当の作者か」</b>と<b>「作家主義について」</b>を読まれたい。監督と脚本家のどちらに「作者」の資格が与えられるかという当時の議論の仲裁として書かれた前者と、「作家主義」の功罪に粘り強く省察を加え『カイエ』の若き批評家たちの行き過ぎを制止しようとした後者とでは、長さも、目的も、議論の歴史的パースペクティヴも異なる。だがそれだけにいっそう、バザンの批評に一貫する思考のスタイルを見出すことが可能なのではないか。<br />
最後に、唯一の英語文献として<b>アンドリュー・サリス</b>の長篇評論<b>「作家理論についての覚え書き、一九六二年」</b>を置く。バザンの「作家主義について」を批判的に継承しつつ、「作家主義」を「作家理論」へと翻訳し、アメリカ映画の批評・理論の場に移植した、この試論の意義は大きい。
[……]</div>
<br />
続いて、編集後記の全文です。<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid #ccc; padding: 10px;">
新訳『映画とは何か』(岩波文庫)に始まり、その訳者の一人でもある野崎歓氏による『アンドレ・バザン――映画を信じた男』(春風社)を経て、バザンの最初の単行本『オーソン・ウェルズ』(インスクリプト)の刊行で幕を閉じた2015年は、バザン関係の出版物の当たり年だった。その機運を逃さずに、2018年に迫ったバザン生誕百周年に向けてさらなる盛り上がりを組織するべく、私たちは2016年6月22日に、山形大学人文学部附属映像文化研究所内に、大久保清朗氏を代表とするアンドレ・バザン研究会を発足させた。「作家主義再考」を柱とするこの学術誌『アンドレ・バザン研究』第1号は、その最初の成果である。<br />
本号がもっぱら過去の文献の翻訳から成っていることに、物足りなさを覚える読者もいるかもしれない。だが、日本の映画研究においては、近年、(とりわけ外国語による)基礎的な文献を精読するという、人文学の根幹を成すはずの作業が、いささか蔑ろにされている傾向はないだろうか。しかるに、バザンをはじめとするフランス映画批評の文脈に限っていえば、まさに碩学というにふさわしい飯島正がアストリュックからゴダールまでの批評を通覧した『ヌーヴェル・ヴァーグの映画体系』全3巻(冬樹社、1980-84年)から、奥村昭夫による『ゴダール全評論・全発言』の渾身の訳業(筑摩書房、1998-2004年)に至るまで、日本はむしろその作業がたゆまず行われてきた国なのだ。そもそも、ダイジェスト版ではない4巻本の『映画とは何か』(小海永二訳、美術出版社、1967-77年)が翻訳されているのは、おそらく日本だけではあるまいか。<br />
本誌が慎ましい姿ではあれ翻訳と注釈という基礎的作業だけに専心していることには、こうした豊かな伝統にささやかながら連なろうとする決意も込められている。その決意に恥じないクオリティを担保するべく、本号ではすべての原稿に対して綿密なピアレビューを行った。個人的には、テクストの(時には細かな)解釈をめぐるやり取りを訳者の方々と交わす作業を通じて、テクストの襞に寄り添った濃密な読解ができたことを――願わくは訳者ともども――嬉しく思っている。繰り返しになるが、人文学的研究の礎はこうした地道な作業にあることを忘れてはなるまい。<br />
もちろん、テクストの着実な読解という土台のうえに、今後、独自の成果を積み重ねていかなければならないことは言うまでもない。来年度に刊行される予定の第2号では、本誌を単なる「バザン訓詁学」の孤塁とはしないためにも、未邦訳のテクストの紹介だけでなく、論考にも力を入れることになるだろう。同時に、狭義のバザン研究をより広い文脈と接合するために、国内であると国外であるとを問わず、研究会の会員以外からの協力も仰いでいく所存である。本誌がまもなく生誕百周年を迎えるバザンに対する読者諸氏のいっそうの関心を惹起できれば、編纂に携わった一人として、それに優る悦びはない。(堀潤之)</div>
<div style="text-align: right;">
(J.H.)</div>
CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-32538371064378830842017-05-08T01:08:00.000+09:002017-11-09T21:47:23.833+09:00『アンドレ・バザン研究』の入手方法<b><span style="color: red;">【11/9追記】。この<a href="https://cahiersandrebazin.blogspot.jp/2017/11/1.html">エントリー</a>に記載のとおり、残部僅少につき、本日(2017年11月9日)をもって『アンドレ・バザン研究』第1号の頒布は終了いたしました。今後、以下の手続きに沿って申し込みをしても、頒布しかねますのでご留意ください。</span></b><br />
<br />
『アンドレ・バザン研究』第1号は非売品で、国会図書館および一部の大学図書館を除いて、一般に流通しません。ご関心のおありの方には、残部がある限りにおいて、実費で頒布いたします。以下のいずれかの方法で、お申し込みください(※5/12に下記の文面を修正しました)。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
*</div>
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid #ccc; padding: 10px;">
1)『アンドレ・バザン研究』第1号を希望する旨のメモとあわせて、送付希望先の住所を記載し215円の切手を貼った封筒(A5判の冊子が入るサイズでお願いします)を同封のうえ、以下の宛先に送付してください。この場合、<a href="https://www.post.japanpost.jp/service/yu_mail/use.html">ゆうメール</a>にて会誌を発送します。<br />
<br />
2)『アンドレ・バザン研究』第1号を希望する旨のメモとあわせて、送付希望先の住所を記載した<a href="https://www.post.japanpost.jp/service/smartletter/index.html">スマートレター</a>(180円)を同封のうえ、以下の宛先に送付してください。</div>
<br />
※宛先はいずれの場合も以下の通りです。<br />
〒990-8560<br />
山形県山形市小白川町1-4-12<br />
山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内
アンドレ・バザン研究会
<br />
<br />
※出張等のため、発送まで10日間程度の期間がかかることもあります。また、授業期間外の場合、発送まで大幅に時間がかかることもあります。どうかご了承ください。<br />
<br />
※5/12現在、スマートレターで入手希望を送ってこられ、こちらから冊子を送るためのスマートレターが同封されていないケースが散見されます。その場合、冊子の発送ができませんので、再度、申し込みをしてください。<br />
<br />
※【5/15追記】。こちらの手違いにより、上記1)の方法で申し込みをした方に対して、一部、ゆうメールではなく定形外郵便物として返送してしまったケースがあります。その場合の送料は250円なので、到着時に差額(35円)を請求される可能性があります。大変申し訳ありません。もしそのようなかたちでお手許に届きました場合は、大変恐縮ですが、研究会メールアドレス宛に改めてご住所をご連絡いただければ、差額分の切手をご送付申し上げます(メールアドレスは右上「詳細プロフィールを表示」から「お問い合わせ」の欄をご覧ください)。<br />
<br />
※残部僅少となった場合、このブログでも告知し、受付を中止します。<br />
<div style="text-align: right;">
以上</div>
CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1215791719429790482.post-92129816290491000672017-05-08T01:06:00.003+09:002021-04-16T09:53:49.497+09:00アンドレ・バザン研究会について 本研究会の目的と活動内容を、第1号の巻頭言から抜粋しておきます。<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;">
2016年6月22日に発足した本研究会は、アンドレ・バザン(1918-58)の批評を総合的に再検討するべく、山形大学人文学部(2017年度より人文社会科学部)の附属機関である映像文化研究所内に設置された。構成メンバーは、山形大学内外の10名の研究者である。バザンについての研究会と、会誌の発行を定期的に行い、そして将来的には公開の研究発表会、また海外の研究者・批評家を招聘してのシンポジウム・ワークショップ開催も視野に入れている。本誌はそれらの成果を発表する場とする。本号では翻訳テクストに集中したが、次号以降は会員を中心とした論文の掲載も予定している。それらを通じて、本研究会は生誕100年を目前に控えたバザンの映画批評の意義を問い直し、願わくば21世紀の映画研究と映画批評の領域において、わずかなりとも刺激をもたらさんとするものである。</div>
<br />
2021年4月現在での研究会会員は、以下の通りです。【2021年4月16日更新】<br />
<br />
<div style="border-radius: 10px; border: 1px solid rgb(204, 204, 204); padding: 10px;">
<b>アンドレ・バザン研究会</b>(五十音順)
<br />
伊津野知多(日本映画大学映画学部准教授/映画理論、映像論)<br />
大久保清朗(研究会代表/山形大学人文社会科学部准教授/映画史)<br />
柿並良佑(山形大学人文社会科学部准教授/現代フランス哲学、表象文化論)<br />
木下千花(京都大学大学院人間・環境学研究科教授/映画史、表象文化論)<br />
合田陽祐(山形大学人文社会科学部准教授/フランス文学・芸術、フランス語教育)<br />
須藤健太郎(東京都立大学人文社会学部助教/映画史)<br />
角井誠(東京都立大学人文社会学部准教授/映画研究、表象文化論)<br />
野崎歓(放送大学教養学部教授/フランス文学)<br />
堀潤之(関西大学文学部教授/映画研究、表象文化論)<br />
三浦哲哉(青山学院大学文学部教授/映画批評・研究、表象文化論)</div>
<br />
<div style="text-align: right;">(J. H)</div>
CahiersABhttp://www.blogger.com/profile/10646294989375471948noreply@blogger.com