2018/04/03

『アンドレ・バザン研究』第2号の刊行

 2016年6月に山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内に発足したアンドレ・バザン研究会では、その2017年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第2号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=堀潤之、伊津野知多、角井誠、2018年3月31日発行、A5判180頁、ISSN 2432-9002)。なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします(【4/15追記】入手方法についてはこちらのエントリーをご覧ください)。


 特集「存在論的リアリズム」では、バザンの最もよく知られた文章の一つ「写真映像の存在論」に特に光を当てています。「写真映像の存在論[草稿]」をはじめとする未邦訳のテクスト5篇を紹介するとともに、研究会会員の論考2篇(堀潤之、伊津野知多)を掲載、さらに会員外から中村秀之氏に研究ノートを寄稿いただいたほか、ダドリー・アンドリュー氏、トム・ガニング氏による論考を訳出しています。

 前号の特集「作家主義再考」を引き継ぐ小特集「作家主義再考2」では、フランソワ・トリュフォーのアベル・ガンス論2篇(うち一篇では、トリュフォーが本文中でおそらく初めて「作家主義」という言葉を使っている)に加え、バザンの晩年のテクスト「批評に関する考察」(これも本邦初訳)を掲載しています。

 目次は以下の通りです。

[特集]存在論的リアリズム
アンドレ・バザン「現実主義的な美学のために」(堀潤之゠訳)
アンドレ・バザン「リアリズムについて」(堀潤之゠訳)
アンドレ・バザン「写真映像の存在論[草稿]」(堀潤之゠訳・注釈)
堀潤之「パランプセストとしての「写真映像の存在論」――マルロー、サルトル、バザン以前のバザン」
ダドリー・アンドリュー「フェティッシュの存在論」(須藤健太郎゠訳)
中村秀之「アンドレ・バザンの« présence »について[研究ノート]」
トム・ガニング「自身の似姿の中の世界――完全映画の神話」(三浦哲哉゠訳)
アンドレ・バザン「モンタージュの終焉」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「シネマスコープ裁判――シネマスコープはクロースアップを殺していない」(伊津野知多゠訳)
伊津野知多「アンドレ・バザンのリアリズム概念の多層性」

[小特集]作家主義再考2
フランソワ・トリュフォー「アベル・ガンス卿」(大久保清朗゠訳)
フランソワ・トリュフォー「アベル・ガンス、無秩序と天才」(大久保清朗゠訳)
アンドレ・バザン「批評に関する考察」(野崎歓゠訳)

 巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介になっているので、以下、その全文を掲げておきます。

「草稿」に誘われて――第二号イントロダクション
堀潤之

 『映画とは何か』の冒頭に収められている論考「写真映像の存在論」が、バザンのあらゆる文章のうち、最も人口に膾炙したものであることはまず疑いあるまい。とりわけ、写真映像が人の手を介さずに自動的に生成されることによって本質的な客観性を持つという中心的なテーゼは、それがパースのいうインデックス的記号と結びつけて論じられてきたことも含め、芸術批評に関心を持つ多くの読者にとって馴染み深いはずだ。だが、一九四五年に世に出たこの短いテクストは、本当に読まれていると言えるだろうか。「写真映像の存在論」がアリバイ的にタイトルだけ言及され、その片言隻語が我田引水に用いられるさまを私たちは幾度となく目にしてきたのではなかったか。

 今から三年近く前、そんなことを漠然と考えながら、バザンが一九五〇年に上梓した最初の著書『オーソン・ウェルズ』(インスクリプト刊、二〇一五年)の訳出を終えようとしていた折、フランスの映画批評誌『トラフィック』九五号(二〇一五年秋)に掲載された「写真映像の存在論[草稿]」(本号に訳出)を手に取った。一読してたちまち、私たちの知らないバザンが、自身の代名詞となるような決定的なテクストを書こうと奮闘している過程に魅了され、映像をめぐる新たな思想が生まれつつある場に立ち会っているような鈍い興奮さえ覚えた。本号の特集「存在論的リアリズム」の淵源にあるのは、「草稿」との出会いによってもたらされた、こうした感慨である。

 「草稿」が「写真映像の存在論」の似て非なる分身、それゆえに不気味な似姿であるとすれば、特集の冒頭に配置した二篇の小論は、「バザン以前のバザン」が何を研究課題として捉え(「現実主義的な美学のために」)、「写真映像の存在論」の着想をどのように作品分析と結びつけようとしていたか(「リアリズムについて」)を明瞭に示してくれるだろう。「草稿」に続く拙論は、バザンに流れ込んでいる知的系譜を改めて整理したうえで、「草稿」を綿密に読み解いたおそらく世界初の試みである。

 私が出会った「草稿」は誌面に書き起こされた字面にすぎず、そこにはオリジナルの複写であればまだ持ち得たかもしれないアウラの欠片もない。だが、バザン研究の第一人者であるダドリー・アンドリュー氏が形見として一九七四年に譲り受けたサルトルの『想像力の問題』の中からたまたま発見したという、バザン自身によると思われるタイプ打ちの読書メモ(本誌五九頁に複製)には、かすかなアウラが漂っているかもしれない。アンドリュー氏は、自身にとって「フェティッシュ」と化したこのたった一枚の紙片を、バザンがサルトルの呪縛の中で写真、映画、テレビの比較考察を試みたものとして鮮やかに読み解いていく。この読解への返歌とも言える中村秀之氏の研究ノートは、サルトルの想像力論とデリダの現前性批判を視野に入れつつ、「写真映像の存在論」のよく知られた一節を厳密に注解しながら、最終的には、映像が「人類の歴史的投企の所産」であることを等閑視するバザン自身の立論の弱点を指摘している。

 「完全映画の神話」は、「写真映像の存在論」と並んで非常に有名でありながら、論じられる機会は圧倒的に少ない。この論考は、ジョルジュ・サドゥールが映画以前の諸装置を実証的かつ目的論的に紹介した『世界映画全史』第一巻(一九四六年)の書評として書かれながら、著者の意図を裏切ってそこに「自身の似姿の中の世界」の再創造という神話の作用を見出すという軽妙洒脱な論考である。それを、初期映画研究の泰斗であるトム・ガニング氏がその後の研究のアプローチとの差異を剔出しつつアクロバティックに読み解いていくさまは、本号のいちばんの読みどころと言ってもいいかもしれない。

 現実世界をそっくりそのまま再現するという神話には、未来の映像テクノロジーの発展が潜在的に含み込まれている。バザンの時代、その部分的な実現は特にシネマスコープによってもたらされた。一九五〇年代のバザンが当時のニューメディアについて精力的に書いていた記事の中から選んだ二篇の小論を読むことで、彼がどのような観点でシネマスコープにリアリズムの拡張を見て取っていたかがはっきりするはずだ。

 特集のタイトルに冠した「存在論的リアリズム」という言葉は、実はバザン自身はほとんど用いておらず(管見の限りでは『オーソン・ウェルズ』に一箇所、用例がある)、本来であれば、「存在論」と「リアリズム」というそれぞれの用語の使い方を十分に吟味する必要があるだろう。その第一歩とも言いうる伊津野知多氏の論考は、「存在論的リアリズム」を含む複数のリアリズム概念がバザンの中でどのように折り重なっているかを明晰に再構成している。

 小特集「作家主義再考2」は、前号の特集を継続して、異形の映画作家と言うべきアベル・ガンスに焦点を当てた。もはや時代遅れであると囁かれていたサイレント期からの偉大な先達を熱烈に擁護する若きトリュフォーの舌鋒には、今なお迫力がある。ガンスを取り上げたのは、「アベル・ガンス卿」に「作家主義」の語がおそらく初めて登場するからでもある。さらに、本号を締め括る文章として、バザンの実質的な白鳥の歌と言ってよい「批評に関する考察」を置いた。「作家主義」的な批評の創始者とも思われがちなバザンが、批評をより広大な営為として捉え、むしろ「作家主義」に最後まで留保を付けていた点には、もっと注意が払われるべきである。

 二〇一八年末には、生誕百周年を迎えたバザンをめぐるシンポジウムを開催し、アンドリュー氏を招聘することが決まっている。次号はその記録を中心に編まれることになるだろう。

 続いて、角井誠氏による編集後記の全文です。

 「批評家の役割とは存在しない真実を銀の盆にのせて運ぶことではなく、芸術作品の与える衝撃を、読者の知性と感性のできるかぎり遠くにまで届かせることなのである」(本誌一七一頁)――「批評に関する考察」を締め括るこの一節に初めて触れたのは、学部生の頃、背伸びをして読んでいたダドリー・アンドリューによる評伝のなかでのことだったろうか。今よりもずっと頼りないフランス語能力しか持ちあわせていなかったけれど、この一節に出会ったときの震えるような衝撃は今なお私のなかに谺している。私が今こうしてジャン・ルノワールを研究しているのも、バザンのあの美しい「フランスのルノワール」というテクストが私にもたらしたショックの産物以外の何物でもないのだ。もちろん、自分自身がそれを実践できているとは言わないし、今となっては批評に関するバザンの主張すべてに首肯するわけでもないが、先の言葉は今なお私の原点であり、私を導く大切な言葉であり続けている。その一節がこうして野崎歓氏によって日本語に訳されたことを心の底からうれしく思う。バザンのテクストが贈り届ける衝撃――作品の衝撃と彼の思考の衝撃――を読者のなかへできるかぎり遠くまで届かせること、それが本研究会の使命ではないだろうか。

 本号の特集「存在論的リアリズム」については、編者の代表ともいうべき堀潤之氏の巻頭言に詳しいので、ここでは深く立ち入らない。堀、伊津野両会員による緻密な論考、中村秀之氏の研究ノート(と呼ぶにはあまりに濃密なテクスト)、さらにはアンドリューやガニングといった海外の大御所の刺激的な論考の翻訳が並ぶ充実した内容となったことを喜ばずにはいられない。

 今回は裏方に徹することとなったので、ここに至る作業について少し触れておきたい。まず本号の準備のため非公開の研究会を催し、堀氏、伊津野氏、角井が各々の研究の経過を報告するとともに、バザン研究の現状について情報を共有する作業を行った。夏の盛りに青山学院大学の瀟洒な一室で繰り広げられた報告とそれに続く討論は、本号にとって、また本研究会にとってきわめて有意義なものであったと思う。また前号に引き続き、学術誌としての質を担保するため論考や翻訳の綿密なピアレビューも行った(論考については査読を行った)。ここでの「綿密な」という形容詞は文字通りに受け止めてもらって差し支えないと思う。じっさい執筆者や訳者と査読者、編集員のあいだではバザンの解釈や翻訳の細部をめぐって幾度もやりとりが重ねられた。編集作業に携わるなか、何度も読んでわかったつもりになっていたテクストが、精緻で大胆な読解を経て、新たな相貌で現れてくるのに立ち会うのはとてもスリリングな体験だった。どの論考もぜひご一読頂きたい。いずれも今後バザンのリアリズム論について考えるさいの必読文献となるのではないかと思う。

 とはいえ、われわれのバザン再考の作業はまだ端緒に就いたばかりである。二〇一八年はいよいよ(!)バザンの生誕百周年。次の百年に向けて、バザンの衝撃をずっと遠くまで届けられるよう一層励んでゆきたい。(角井誠)
(J.H.)