2017/05/08

『アンドレ・バザン研究』第1号の刊行

 2016年6月に山形大学人文学部附属映像文化研究所内に発足したアンドレ・バザン研究会では、その初年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第1号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=大久保清朗、堀潤之、2017年3月31日発行、A5判116頁、ISSN 2432-9002)。


 内容は以下にみられる通り、1950年代の『カイエ・デュ・シネマ』誌において確立された「作家主義」la politique des auteursの先駆けからアメリカへの移植に至るまで、すべて本邦初訳により、古典的テクストを通覧するものになっています。各論考には解題も付されています。

大久保清朗「バザンの徴の下に――『アンドレ・バザン研究』創刊に寄せて」

[特集]作家主義再考
アレクサンドル・アストリュック「新しいアヴァンギャルドの誕生――カメラ万年筆」(堀潤之訳)
ロジェ・レーナルト「フォード打倒! ワイラー万歳!」(堀潤之訳)
アンドレ・バザン「ジャック・ベッケル『エストラパード街』」(角井誠訳)
フランソワ・トリュフォー「アリババと「作家主義」」(大久保清朗訳)
アンドレ・バザン「誰が映画の本当の作者か」(大久保清朗・堀潤之訳)
アンドレ・バザン「作家主義について」(野崎歓訳)
アンドリュー・サリス「作家理論についての覚え書き、一九六二年」(木下千花訳)

 以下、巻頭言より、各論考の内容に簡潔に触れた部分の抜粋です(強調引用者)。

 [……]「作家主義」の前史あるいはひとつの起源とされるアレクサンドル・アストリュック「新しいアヴァンギャルドの誕生――カメラ万年筆」から本特集は始まる。「カメラ万年筆」論として名高いこの宣言文は、映画が「思考を表現する」言語となるべきであると述べている。そしてロジェ・レーナルト「フォード打倒! ワイラー万歳!」は、スタイルの創造者として二人の監督を対照させながら、前者を「古典」時代の延長にすぎないとして退け、後者に「最新の傾向」を見出そうとする、挑発に満ちたエッセイである。
 それに続くバザン『エストラパード街』の映画評と、フランソワ・トリュフォー「アリババと「作家主義」」は、ジャック・ベッケルという同一の「作家」をめぐって、師弟関係にある両批評家の相互の立場を対照させつつ理解できる最適のテクストであろう。主題と演出との関係を重視するバザンに対し、あくまで演出の問題にこだわる弟子トリュフォー。後者の擁護顕揚において、管見では「作家主義」の語が初めて登場する。
 [……]バザンにとって「作者=作家」、あるいは「作家主義」とは何であったのか。その問いをめぐっては、二つの論考「誰が映画の本当の作者か」「作家主義について」を読まれたい。監督と脚本家のどちらに「作者」の資格が与えられるかという当時の議論の仲裁として書かれた前者と、「作家主義」の功罪に粘り強く省察を加え『カイエ』の若き批評家たちの行き過ぎを制止しようとした後者とでは、長さも、目的も、議論の歴史的パースペクティヴも異なる。だがそれだけにいっそう、バザンの批評に一貫する思考のスタイルを見出すことが可能なのではないか。
 最後に、唯一の英語文献としてアンドリュー・サリスの長篇評論「作家理論についての覚え書き、一九六二年」を置く。バザンの「作家主義について」を批判的に継承しつつ、「作家主義」を「作家理論」へと翻訳し、アメリカ映画の批評・理論の場に移植した、この試論の意義は大きい。 [……]

 続いて、編集後記の全文です。

 新訳『映画とは何か』(岩波文庫)に始まり、その訳者の一人でもある野崎歓氏による『アンドレ・バザン――映画を信じた男』(春風社)を経て、バザンの最初の単行本『オーソン・ウェルズ』(インスクリプト)の刊行で幕を閉じた2015年は、バザン関係の出版物の当たり年だった。その機運を逃さずに、2018年に迫ったバザン生誕百周年に向けてさらなる盛り上がりを組織するべく、私たちは2016年6月22日に、山形大学人文学部附属映像文化研究所内に、大久保清朗氏を代表とするアンドレ・バザン研究会を発足させた。「作家主義再考」を柱とするこの学術誌『アンドレ・バザン研究』第1号は、その最初の成果である。
 本号がもっぱら過去の文献の翻訳から成っていることに、物足りなさを覚える読者もいるかもしれない。だが、日本の映画研究においては、近年、(とりわけ外国語による)基礎的な文献を精読するという、人文学の根幹を成すはずの作業が、いささか蔑ろにされている傾向はないだろうか。しかるに、バザンをはじめとするフランス映画批評の文脈に限っていえば、まさに碩学というにふさわしい飯島正がアストリュックからゴダールまでの批評を通覧した『ヌーヴェル・ヴァーグの映画体系』全3巻(冬樹社、1980-84年)から、奥村昭夫による『ゴダール全評論・全発言』の渾身の訳業(筑摩書房、1998-2004年)に至るまで、日本はむしろその作業がたゆまず行われてきた国なのだ。そもそも、ダイジェスト版ではない4巻本の『映画とは何か』(小海永二訳、美術出版社、1967-77年)が翻訳されているのは、おそらく日本だけではあるまいか。
 本誌が慎ましい姿ではあれ翻訳と注釈という基礎的作業だけに専心していることには、こうした豊かな伝統にささやかながら連なろうとする決意も込められている。その決意に恥じないクオリティを担保するべく、本号ではすべての原稿に対して綿密なピアレビューを行った。個人的には、テクストの(時には細かな)解釈をめぐるやり取りを訳者の方々と交わす作業を通じて、テクストの襞に寄り添った濃密な読解ができたことを――願わくは訳者ともども――嬉しく思っている。繰り返しになるが、人文学的研究の礎はこうした地道な作業にあることを忘れてはなるまい。
 もちろん、テクストの着実な読解という土台のうえに、今後、独自の成果を積み重ねていかなければならないことは言うまでもない。来年度に刊行される予定の第2号では、本誌を単なる「バザン訓詁学」の孤塁とはしないためにも、未邦訳のテクストの紹介だけでなく、論考にも力を入れることになるだろう。同時に、狭義のバザン研究をより広い文脈と接合するために、国内であると国外であるとを問わず、研究会の会員以外からの協力も仰いでいく所存である。本誌がまもなく生誕百周年を迎えるバザンに対する読者諸氏のいっそうの関心を惹起できれば、編纂に携わった一人として、それに優る悦びはない。(堀潤之)
(J.H.)