2016年6月に
山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内に発足したアンドレ・バザン研究会では、その2019年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第4号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=堀潤之、伊津野知多、角井誠、2020年3月31日発行、A5判116頁、ISSN 2432-9002)。
なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします。
本号の目次は以下の通りです。
角井誠「存在の刻印、魂の痕跡――アンドレ・バザンの(反)演技論」
ダドリー・アンドルー「バルト、バザン、エクリチュール」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「『希望』あるいは映画におけるスタイルについて」(堀潤之゠訳)
アンドレ・バザン「スクリーン上の死」(角井誠゠訳)
アンドレ・バザン「報道か屍肉食か」(角井誠゠訳)
谷昌親「死骸的現存としてのイメージ――映画『闘牛』をめぐるバザンとレリスの交錯」
巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介を含んでいるので、以下、その全文を掲げておきます。
『バザン全集』からの再出発――第四号イントロダクション
堀潤之
バザンが生誕100周年を迎えた2018年も暮近く、本研究会の界隈は、ついに刊行された浩瀚なバザン全集(André Bazin,
Écrits complets, édition établie par Hervé Joubert-Laurencin, Éditions Macula, 2018)の話題で持ちきりだった。日本学術振興会外国人研究者招へい事業の助成で来日していたダドリー・アンドルー氏の講演を軸にしたイベントを12月16日と20日に東京と山形で開催した際にも、コーヒーブレークにはとかく、三千頁のうちにおよそ2700篇の記事がぎっしり詰まった二巻本によってもたらされた衝撃が口の端に上った。私たちはすでに、バザンがその短い生涯で書いた文章が、『映画とは何か』全四巻を筆頭とする十数冊の単行本に収められた分量のおよそ十倍に及んでいることを知っていたし、まさにアンドルー氏その人の尽力で公開されたオンラインの書誌データベース(
https://bazin.yale.edu/)を活用して、書庫に潜っては単行本未収録の記事を繙読していた(その成果の一端は、本誌でこれまで披露してきたとおりである)。しかし、こうしてバザンの全記事が、編者エルヴェ・ジュベール゠ローランサンによる周到な校訂を経て、有用きわまりない解説文と無数の活用法を見出しうる五種類の索引とともに重厚な物質的な塊として送り届けられると、私たちの知るバザンがやはり氷山の一角でしかなかったことが明白な事実として実感されたのである。
しかも『全集』は、24の区切りに沿って、全記事をひたすら時系列順に並べている。この単純な仕掛けによって、私たちは一般的に流布しているバザンのさまざまな問題設定――作家主義、リアリズム、映画と他の諸芸術、映画の社会学、等々――をいったん括弧に入れて、徒手空拳でテクストに向き合うように迫られる。バザン自身がある程度まで構想したはずの『映画とは何か』四巻の構成という括りすらいったん解体するこの『全集』という装置は、そのささやかな偶像破壊的身振りによって、先入観なしにバザンを読むことへと読者を改めて誘っているのだ。
本号に収められているのは、各執筆者がおそらくはその誘いにも乗って、それぞれの仕方で、新しいバザン読解を模索した試みの成果である。巻頭を飾る角井誠氏の「存在の刻印、魂の痕跡――アンドレ・バザンの(反)演技論」は、
生誕100周年記念イベント(東京)での発表から生まれたもので、俳優論・演技論という新しい切り口からバザンのテクストを再読している。バザンの存在論的リアリズムが俳優を対象に据えたときに何が起こるのか、それは俳優をスターの「神話」から読み解くバザンのよく知られたアプローチとどう異なるのか、こうした新たな問いの数々はこれまでとは違った角度からバザンを捉える可能性を切り拓いているように思われる。
続くアンドルー氏の「バルト、バザン、エクリチュール」は
生誕100周年記念イベント(山形)の講演に端を発するもので、
前号に掲載した氏の論考「この残酷な世界へのバザンのインテグラルな視座」に続いて、英語での公刊に先立って最新の成果をここに訳載することができたのは大変悦ばしいことだ。元々は「映画とアダプテーション」という枠組みでの講演だったが、バザン研究では馴染み深い「脚色」の問題系をはるかに超えて、アンドルー氏は、相対的に知られていないものを含むバザンの多数のテクストを軽やかに渉猟しながら、それらとバルトの「エクリチュール」概念との共鳴を探っている。
バザンを同時代の知的コンテクストへと開いていくという構えは、特別寄稿をいただいた谷昌親氏による「死骸的現存としてのイメージ――映画『闘牛』をめぐるバザンとレリスの交錯」にも共通する。2018年11月に山形大学で
生誕100周年プレイベント「バザン、レリス、闘牛」を開催した際に、大久保清朗氏による日本語字幕付きで初上映されたピエール・ブロンベルジェのドキュメンタリー映画『闘牛』
La Course de taureaux(1951)の解説をしていただいたことをきっかけに生まれたこの論考では、バザン、レリス、さらにはブランショのありえたかもしれない接点がスリリングに探られ、バザンの映像論を、文学と哲学の領域におけるより広範なイメージ論の文脈へと接ぎ木している。なお、谷氏の論考が、それに先立つ二篇のバザンの記事(これまで未邦訳だった「スクリーン上の死」、「報道か屍肉食か」)とともに、「死の表象」をめぐるセクションをゆるやかに形作っていることも付け加えておこう。
本号ではもう一篇、バザン最初期の未邦訳のテクスト「『希望』あるいは映画におけるスタイルについて」を訳出した。ここで扱われているアンドレ・マルローの唯一の映画には、私自身、並々ならぬ興味を抱いていた。野崎歓氏がかつて記したように(「アンドレ・マルローの聖別」、
『ユリイカ』1997年4月号)、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちはたびたびマルローに言及していたし、その後、ゴダールも『映画史』(1988-98)でこの映画を引用し、ストローブもまた『共産主義者たち』(2014)と『水槽と国民』(2015)でマルローの「脚色」を手がけているからだ。加えて、バザンその人が徒手空拳で映画に向き合う始まりの場にも関心があった。実際、本論考は単なる作品論を超えて、小説の文彩(省略や直喩)と比較したときの映画の表現の可能性と限界を掘り下げた、まことに気宇壮大な考察となっている。同じく1945年に発表された「写真映像の存在論」が提示する映画の根本的な特質とはまったく異なる映画の特質が、ここで捉えられているのだ。バザンの探究は、映像の存在論だけでなく、映像の修辞学にも、もう一つの軸足を置いて開始されたのではないか、と考えたくなる所以である。
本号を貫いているのは、こうして既知のバザン像をあえて遠ざけて、いわば初心にかえってバザンを読むという態度である。今後の本研究会は、『全集』をバイアスなしに読み込む作業を積み重ねつつ、再び何らかの意味的なまとまり――願わくば未聞の――を見出してゆかねばならないだろう。
続いて、伊津野知多氏による編集後記の全文です。
第四号は前号に引き続き、本研究会が2018年に東京と山形で三度にわたって開催したバザン生誕100周年記念関連イベントで提起された問いを発展させたものとなった。バザン的な映像の存在論に対しては、ブランショの「死骸的現存」という概念を通して光を当てる谷昌親氏の特別寄稿と、演技論という切り口から迫る角井誠氏の精緻な論考を、またもうひとつの大きなテーマである映画言語や文体論、脚色に対しては、ダドリー・アンドルー氏による「エクリチュール」という観点からの特別寄稿を掲載することができた。またバザンの未邦訳文献としては、映画的表象の臨界点ともいえる「死」をめぐる小論二篇と、その後のバザンの問題系が凝縮して現れているような初期の批評一篇の翻訳を、読み応えのある解題とともにお届けする。レリス、ブランショ、バルト、マルローなど、同時代の言説を通して歴史的・社会的な文脈のなかでバザンを捉え直すという視点も本号の執筆者に共通するものだが、直接的な交流ではなく、あくまで書物や作品というテクストを通じた想像的な出会いのなかにバザンと彼らの関係が探られている。そこにはバザンの核心に関わる思いがけない発見があった。
バザンは存在を死によって、映画を小説(や他の諸芸術)によって、演技を反演技によって語る。こうした態度はある意味で一貫しているが、逆説の中にこそバザンの理論的想像力があり、新しい何かに答えを与えるために設定された仕掛けだったのではないかと感じる。映画の進化や「アヴァンギャルド」にこだわり、映画はまだ発明されていないとさえ言うバザンが求めていただろうその何かを、私たちは彼の文章の細部から再構築していきたいと思う。論考については厳正な査読を行い、翻訳については綿密に相互チェックすることで、できる限り精確な言葉でそれを読者に届けられるよう努めた。
2018年に刊行された『バザン全集』とともにバザン研究の新局面を迎えた2019年、私たちはこれまでとはちがった形でバザンに向き合うようになった。情報収集という面で利便性が向上したのはもちろんだが、それにとどまらない衝撃があったことは堀潤之氏の巻頭言にある通りである。この突如として全貌を現した未踏の大地には、想像していた以上に刺激が満ちている。その細部に眼をとめて存分に観察するばかりでなく、積み重なった地層や、場所ごとの植生の違いを調べて、彼の思想の変化や年を経ても変わらない根のようなものを探っていくこともできるだろう。思えばバザンと私たちは既に出会い損ねており、ただテクストを通して向き合うほかない。しかしだからこそ、ひとつひとつの文章のなかに彼の存在の痕跡を探すのだ。本研究会員もそれぞれの関心によってさまざまなルートから探索を開始している。今回の編集作業を通して、執筆者や研究会メンバーたちと探索を共にできたことはとても貴重な体験だった。遭難しかけたところを救われたことも多く、感謝するとともに足腰を鍛えておくことの必要性を感じている。これから一気に加速しそうなバザン研究のベースキャンプのひとつとして、今後も本研究会が機能できればうれしい。
(J.H.)