2019/03/31

『アンドレ・バザン研究』第3号の刊行

 2016年6月に山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内に発足したアンドレ・バザン研究会では、その2018年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第3号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=木下千花、堀潤之、角井誠、2019年3月31日発行、A5判104頁、ISSN 2432-9002)。なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします(【付記】入手方法についてはこのエントリーをご覧ください)。


 本号は、バザン生誕100周年記念イベントとして2018年12月に行った二つのイベントを中心に編まれています(詳しくは以下の「編集後記」をご覧ください)。目次は以下の通りです。

ダドリー・アンドルー「この残酷な世界へのバザンのインテグラルな視座」(木下千花・堀潤之゠訳)
野崎歓「〈インテグラル・バザン〉と出会うために――ダドリー・アンドルーの問いかけ」
三浦哲哉「メトニミーについて――ダドリー・アンドルー講演の余白に」
濱口竜介「曖昧な映画の書き手」

[小特集]映画とアダプテーション
アンドレ・バザン「脚色、あるいはダイジェストとしての映画」(堀潤之゠訳)
吉村和明「アダプテーションの冒険――ロベール・ブレッソン『ブローニュの森の貴婦人たち』をめぐって」
須藤健太郎「映画は疑問符のなかに――「不純な映画のために」再読序説」

 巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介になっているので、以下、その全文を掲げておきます。

インテグリティについて――第三号イントロダクション
木下千花

 アンドレ・バザンの生誕100年であり歿後60年であった2018年、研究会の活動の一つの軸となり、本号の中心になったのは、バザン研究のまさに泰斗であるダドリー・アンドルー氏(*)の招聘である。 日本学術振興会外国人研究者招へい事業の助成により12月に三週間近くに亘って滞在したアンドルー氏は、16日に東京大学駒場キャンパスで開催されたシンポジウム「21世紀のアンドレ・バザンに向けて」を皮切りに、山形大学小白川キャンパスにおける「映画とアダプテーション――アンドレ・バザンを中心に」(20日)、さらに京都文化博物館では溝口健二の生誕120年を記念する国際シンポジウム「『近松物語』における伝統と革新」(22日)と、たて続けに密度の高い講演を行い、討議に参加しては深い学識を惜しげもなく披露した。東京と山形におけるバザン関連のイベントについては角井誠氏も本号編集後記で紹介しており、詳細は本研究会ブログに報告が掲載予定なので参照されたい。

 本号の巻頭では、アンドルー氏が東京での基調講演をさらに推敲した原稿「この残酷な世界へのバザンのインテグラルな視座」を木下が堀潤之氏の協力を得て訳出した。この論文はアンドルー氏のバザン論として現時点で最新のものであり、世界に先がけて英語よりも早く世に出ることになる。アンドルー氏は1980年代以降のフランス語圏および英語圏におけるバザンの受容を、映画を持続と変容のメディウムとして捉えた理論家としての「時間のバザン」から、エコクリティシズムや思弁的実在論の先駆としての「ポストヒューマン的バザン」への流れとして整理する。後者の潮流に棹を差しつつアンドルー氏が提示するのは、人間とそれ以外の生物たちの多様な視座(パースペクティヴ)と時間性が併存する「空間」を鍵とするバザンの読み直しだ。『戦火のかなた』(1946)や『ゲームの規則』(1939)のようなバザンの映画批評としては定番のタイトルが、視座を変えることでその相貌を一変させ、新たな事物の配列と細部が鮮やかに浮上する。さらに、非人間の視座から空間を見つめる「残酷の映画」として『象は静かに座っている』(2018)をはじめとした今世紀の作品が俎上に載せられる。

 このように、抽象度の高い理論を展開すると同時に現代においてバザン批評を継続するアンドルー氏は、野崎歓氏と三浦哲哉氏というきわめて相応しい対話者を得た。野崎氏はアンドルー講演の壮大なスケールと難解さをまさにバザンの映画論自体に由来するものとして正面から受け止め、その宇宙と生き物たちへの言及をシュルレアリスムからハリウッド映画へと縦横無尽に接続してゆく。三浦氏はアンドルー氏が取り上げた修辞のうち換喩(メトニミー)に着目して援用し、『11'09''01/セプテンバー11』(2002)の「アメリカ篇」(ショーン・ペン)のような現代映画における「影」が、隠喩でもメタ映画的仄めかしでもなく、空間的なリアリズムを達成していることを示唆する。

 濱口竜介氏のバザン論は、現代の世界映画を代表する監督と映画史上最も偉大な批評家の邂逅であり、僥倖というよりほかない出来事である。濱口氏の実践に基づく理論は、まさにアンドルー講演がしたのと同じしかたで、バザンの演技論の核心を射貫いてその可能性を拡張し、演技を演技として記録することによって生み出される「リアリズム」の残酷で猥褻な美を明らかにする。

 本号の小特集はアンドルー氏がバザンから継承したもう一つの重要なテーマである翻案(アダプテーション)を取り上げる。堀氏による「脚色、あるいはダイジェストとしての映画」の翻訳は、バザンの主要論文の一つでありながら邦訳のなかった脚色゠適応(アダプテーション)論を精緻な手さばきによって明晰な日本語に変換し、メディアミックス時代の――それゆえにこの論文の真価をまさに理解しうる――読者へと送り届ける。吉村和明氏と須藤健太郎氏の論考は山形での発表を発展させたものである。吉村氏の『ブローニュの森の貴婦人たち』(1945)論は、ドニ・ディドロを原作とするロベール・ブレッソンの映画において「ふたつのリアリズムが互いを破壊し合」う、というバザンの言葉を手がかりにしたテクスト分析であるが、その鳥肌が立つような繊細さは、まさに分析対象を擬態するかのようだ。須藤氏による「不純な映画のために」再読は、よく知られているはずのこのバザン論文には「不純な映画」という言葉は一度も登場しないという「目から鱗」の指摘から説き起こし、「純粋/不純」をめぐる1930年代以降のフランス映画文化の文脈を辿ることで、バザンの批評的戦略を明らかにする。

 1945年にカリフォルニアに生まれたアンドルー氏は、博士論文の研究を発展させた評伝『アンドレ・バザン』(1978年)をオックスフォード大学出版から上梓して以来少なく見積もって40年間、バザン研究を継続してきた。一方、アンドルー氏はフランス映画史、映画理論、溝口をはじめとした世界映画(ワールドシネマ)など複数の分野の第一人者であり、デイヴィッド・ボードウェルに始まってD・N・ロドウィック、メアリ・アン・ドーンなどの錚々たる研究者を育て、英語圏におけるアカデミックな映画研究を草創期から第一線で牽引してきた。だが、まさにアンドルー氏が立役者の一人となった今世紀初頭の世界的なバザン・ルネッサンスを経た現在では想像し難いことだが、単行本化されずに様々な媒体に散らばったバザンの批評を収集し読み続ける営為が、映画研究の中心という地位にそぐわなく見えた時代は確かに存在した。さらに言うと、芸術領域間のヒエラルキーやオリジナリティの神話が崩壊しニューメディア研究が興隆した今でこそ、翻案研究はもてはやされているが、長いこと、映画原理主義者には純潔を疑われる一方で、文学研究者には軽んじられ密猟される不幸な領域であった。

 アンドルー氏は、常に最新のトレンドと切り結び、多様な方法論と寛容な対話を続けつつ(アンドルー氏の「あの学生はいつも私とまったく反対のことを言う」という言葉は絶賛である)、決してブレない。ダドリー・アンドルーには、アンドレ・バザンをあたかも擬態したかのような高潔さ(インテグリティ)がある。

*本誌第二号において、さらにアンドルー氏招聘事業の一連の告知において、Andrewに「アンドリュー」の表記を当ててきたが、現在の慣用に照らし、本人にも確認したうえで、「アンドルー」に改める。近藤耕人氏のご指摘に感謝する。さらに第一号において木下が批評を訳出したAndrew Sarrisの名も「アンドリュー」ではなく「アンドルー」たるべきであった。(思えばこの聖アンデレに由来する名はバザンとも共通している。)ここに謹んでお詫びするとともに、訂正したい。

 続いて、角井誠氏による編集後記の全文です。

 アンドレ・バザンの生誕100周年にあたる2018年は、本研究会にとって充実した年となった。11月のプレイベントを皮切りに、12月にはバザン研究の大家であるダドリー・アンドルー氏を迎えて盛大な生誕百周年記念イベントを行った。本号はそれらのイベントを出発点として編まれたものである。「作家主義再考」、「存在論的リアリズム」を掲げてバザンの思想を掘り下げてきた前二号とは些か趣を異にしつつも、アンドルー氏や濱口竜介監督の寄稿もあり、これまた充実した号となったのではないかと思う。

 ここでは、2018年度の本研究会の活動を簡単に振り返っておきたい。11月には表象文化論学会の研究発表集会の関連イベントとして山形大学において生誕100周年プレイベント「バザン、レリス、闘牛」が開催された。ピエール・ブロンベルジェとミリアムによる『闘牛』(1951、日本未公開)の上映に続いて、この映画について「すべての午後の死」という短いながらも重要なテクストを残したバザンと、同作のナレーションを執筆したミシェル・レリスの二人をめぐって、谷昌親氏、千葉文夫氏、大久保清朗氏、角井による解説、発表が行われた。バザンの映画論について思索を深めるばかりでなく、レリスとの遭遇によってバザンの思想をより広い文脈へと開く機会ともなった。このイベントに関連する論考は本号に含まれていないが、表象文化論学会のニューズレター『REPRE』35号に東志保氏による報告が掲載されているので、ぜひそちらもご覧頂きたい。

 12月の生誕100周年記念イベントは二部に分けて開催された。第一部「21世紀のアンドレ・バザンに向けて」は12月16日に東京大学駒場キャンパスで開催され、アンドルー氏の刺激的で野心的な基調講演、それを受けての濱口竜介監督、野崎歓氏、三浦哲哉氏によるラウンド・テーブル、そして堀潤之氏、伊津野知多氏、角井による研究発表と、合計五時間にわたって濃密な講演、発表が繰り広げられた。そして12月20日には、山形大学において第二部となる「映画とアダプテーション――アンドレ・バザンを中心に」が開催された。こちらもアンドルー氏の講演に続き、吉村和明氏、大久保清朗氏、須藤健太郎氏による発表が行われた。本号は、この100周年記念イベントに基づいている(第二部については、脚色をめぐるバザンの未邦訳論考も合わせて小特集とした)。多くの方にご来場頂き、イベントはいずれも盛会に終わった。本研究会の活動が、バザンへの関心を高めることに貢献できているとしたら、これほどうれしいことはない。

 しかし100周年は一つの節目に過ぎない。バザンの可能性を現在において、そして未来に向けて読み直す作業に終わりはないのだ。それに、われわれのもとにはついに(!)、ずいぶん前から刊行が噂されていた待望のバザン全集が届けられたではないか(Écrits complets, édition établie par Hervé Joubert-Laurencin, Éditions Macula, 2018)。それはいまや真っ黒な箱に収められた重厚な二巻本として紛れもなく存在し、読まれることを待っている。バザン再考の作業はここから新たに始まるのだ。
(J.H.)