アンドレ・バザン研究会では、2020年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第5号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=角井誠、堀潤之、伊津野知多、2021年3月31日発行、A5判140頁、ISSN 2432-9002)。なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします。
本号の目次は以下の通りです。
[特集]不純なバザンのために
角井誠「リアリズムから遠く離れて――アンドレ・バザンのアニメーション論」
アンドレ・バザン「アニメーション映画は生き返る」(角井誠゠訳)
アンドレ・バザン「倫理的リズムあるいは九去法」(角井誠゠訳)
アンドレ・バザン「ペリの危機」(角井誠゠訳)
伊津野知多「不純な存在への賭け――バザンとテレビ」[解題]
アンドレ・バザン「永遠についてのルポルタージュ――『ロダン美術館訪問』」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「映画館よりテレビ向きの映画もある」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「テレビの美学的な未来――テレビは最も人間的な機械芸術だ」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「テレビ、誠実さ、自由」(伊津野知多゠訳)
細馬宏通「3D映画のミザンセヌ――『ダイヤルMを廻せ!』を捉え直す」[研究ノート]
三浦哲哉「魂の現実性とは何か――翻案、預言、反復」[研究ノート]
[小特集]バザンの収容所映画論
堀潤之「リアリズムの臨界――バザンと収容所映画」[解題]
アンドレ・バザン「『最後の宿営地』」(堀潤之゠訳)
アンドレ・バザン「収容所的ゲットー――『長い旅路』」(堀潤之゠訳)
アンドレ・バザン「『夜と霧』」(堀潤之゠訳)
巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介を含んでいるので、以下、その全文を掲げておきます。
映像の「実存」――第五号イントロダクション
角井誠
「不純な映画のために――脚色の擁護」(1952)のなかでバザンは、サルトルの「実存は本質に先立つ」という文句を踏まえて次のように書く。「映画に関して、実存はその本質に先立つといわなければなるまい。批評家は映画の実存から出発すべきなのだ――それに大胆きわまる拡大解釈を加えようとする場合でも」(『映画とは何か(上)』岩波文庫、2015年、168頁)。映画を何らかの「本質」によって規定する本質主義と訣別し、移りゆく映画の「実存」に寄り添おうとする批評家バザンの姿勢が鮮明に打ち出されたこの一節には、ずっと心惹かれるものがあった。
もちろん、バザンにも本質主義的な側面はある。写真映像の特性を起点にリアリズムの美学を語るバザンは、ときに本質主義に限りなく接近する。本誌
第二号掲載の最初期の論考「リアリズムについて」などがその最たる例だろう。他方で、バザンは、文学や演劇の脚色の増加という現象を前に、それを本質主義のもとに断罪するのでなく、「不純な映画」として擁護した。バザンが論じた「映画の実存」は、脚色映画ばかりではない。1950年代には、テレビが普及し、それに伴って映画も変容を被った(シネラマやシネマスコープなどの大型スクリーン、3D映画の登場など)。バザンが、そうした変容にもしかるべき批評的関心を寄せていたことはこれまでも知られてきた。
そして2018年のバザン
全集刊行は、映像の「実存」に対するバザンの関心のさらなる広がりを明らかにしてくれた。二巻本でほぼ三千頁の全集には、三千篇近いテクストが並ぶ。長文の論考で理論的な思索を深める一方で、バザンは時評家としてテレビも含む膨大な作品を取り上げていった。日刊紙『ル・パリジャン・リベレ』に書かれた時評だけでもおよそ千四百篇と全集の約半数を占める。「映画の実存から出発すべき」という言葉は決してはったりではなかったのである。本号では、(実写の)映画ばかりでなく、多種多様な映像の「実存」と向き合うバザンを「不純なバザン」と名付けて特集タイトルに掲げた。バザン自身の用法では、「不純な映画」は、映画と他の諸芸術の関係にのみ関わるものであるが、ここでは「不純」の語をやや広義にとらえた。
まず、拙論とともに、バザンのアニメーション論の翻訳を掲載する。バザンがアニメーションについても時評や批評を書いていたことはあまり知られていない。『全集』の頁を繰るうち、ふと目に止まったアニメーションについての時評に興味をそそられて、アニメーション論を体系的に読む作業を行った。拙論は、同時代の文脈を踏まえ、バザンのアニメーション論を辿るものとなっている。ディズニーに対するアンビヴァレントな関係や、反ディズニー的な「アニメーション映画」への関心は、バザンの映画論を考えるうえで新たな視座を与えてくれるのではないかと思う。また、CGの導入に伴って実写とアニメーションの境界が揺らぐ現在、「カートゥーン・フレンドリー」なバザンに光を当てることにも少なからぬ意義があると信じたい。
続いて、伊津野知多氏による解題とともに、バザンのテレビ論をお届けする。先行研究を紹介しつつ、バザンのテレビ論の主要なモチーフを浮かび上がらせる伊津野氏の解題は、きわめて有用なイントロダクションとなっている。そこでは、対象を映画からテレビに変えつつも、メディウム固有の美学や心理学、「不純なテレビ」の可能性を探るバザンの姿が精緻に描き出される。新たなメディアと向き合うバザンの果敢な思索は、変化するメディア状況の中にいるわれわれにも示唆を与えてくれるに違いない。
細馬宏通氏による寄稿は、バザンの3D映画論を起点に、彼自身は見ることのできなかった『ダイヤルMを廻せ!』(1954)の3D版を分析することで、3D映画に固有の演出に迫ろうとする刺激的な論考である。「ゼロ平面」や「ゴースティング」などの概念を発明しつつ、3D映画の美学的可能性を描き出すその見事な手つきは、バザンのそれを彷彿とさせさえする。
三浦哲哉氏の研究ノートは、バザンの「『田舎司祭の日記』とロベール・ブレッソンの文体論」を再読するもので、語の本来の意味での「不純な映画」に関わる。しかし三浦氏は、「魂」や「預言」の語に着目し、バザンの議論の根底で作動するカトリシズム特有のイメージ論を炙り出すことで、バザンの映画論を大胆に読み直してみせる。
小特集「バザンの収容所映画論」では、堀潤之氏による解題とともに、強制収容所をめぐるバザンの映画評の翻訳をお送りする。バザンのリアリズム論が、写真映像の特性ばかりでなく、強制収容所など「現実世界をめぐる状況論」にも由来するという堀氏の鋭利な指摘にあるように、これらのテクストは、特集とはまた別の角度から、バザンの本質主義、リアリズムを問い直すものであるだろう。
全体として、本号では比較的知られていないバザンの顔に光を当てることとなった。バザンの批評は広大である。そこにはまだ、われわれの知らないバザンが眠っている。
続いて、堀潤之による編集後記の全文です。
前号のイントロダクション「『バザン全集』からの再出発」で、私は2018年末に刊行された全集がもたらした衝撃について語り、「今後の本研究会は、『全集』をバイアスなしに読み込む作業を積み重ねつつ、再び何らかの意味的なまとまり――願わくば未聞の――を見出してゆかねばならないだろう」と述べた。本号の特集「不純なバザンのために」で取り上げたアニメーション論とテレビ論という二つの「まとまり」は、まさに『全集』が可能にした綿密な読解作業を礎に成り立っている。
なるほど、いずれのトピックも「未聞」とまでは言えないかもしれない。野崎歓氏もエルヴェ・ジュベール゠ローランサン氏も、バザンとアニメーションという一見したところ相容れない組み合わせに早くから注目していたし、テレビ論に関しては、とりわけダドリー・アンドルー氏が編纂した『
アンドレ・バザンのニューメディア』(2014)に英訳がまとめて収録されて以降、その存在が広く知られ、様々な観点からの研究が活発になされているからだ。とはいえ、バザンの数多あるアニメーション論およびテレビ論を渉猟し、そのエッセンスを論考ないし解題で独自の観点から浮き彫りにし、幾つかのキーテクストを訳出した角井誠氏と伊津野知多氏の貢献は決して小さなものではないだろう(なお、これまでの号と同様、論考については厳正な査読を行い、翻訳もすべて綿密なピアチェックを経ていることを付言しておく)。特集には、バザンを一つの契機として3D映画論という未踏の領域に切り込まんとする細馬宏通氏と、バザンのよく知られた脚色映画論を搦め手から見事に読解する三浦哲哉氏の研究ノートがさらなる彩りを添えてくれた。
小特集「バザンの収容所映画論」でも、バザンの相対的に知られざる三篇の映画評を繋ぎ合わせることで、ごく小規模なものとはいえ、私なりに「未聞のまとまり」を見出そうとした。これが単なるマイナーな記事の発掘にとどまるものではなく、戦時下のユダヤ人大虐殺の表象をめぐる「ランズマン以前」の議論の地平を見据えるための作業であることが、解題によって詳らかになっていることを願うばかりである。
今回、バザンが日刊紙『ル・パリジャン・リベレ』に寄せた一四〇〇本近くの掌篇のうちの二篇を、本誌で初めて訳出できたのも嬉しいことだ。バザンがその決して長くない批評家としてのキャリア全体を通じて、ほぼ三、四日に一篇のペースで書き続けた短いながらも鋭利な評には、しばしば後に別の媒体で発展していく論点が凝縮されていることも多く、従来アクセスが困難だったこれらのカプセル・レビューを一種の「映画日誌(シネ・ジュルナル)」として読み進めることは、『全集』が著しく容易にしてくれた大きな楽しみの一つなのである。巻頭言で角井氏も言うように「映画の実存」を克明に記録したこれら一連の時評は、通読すれば、バザンという強靱な知性のプリズムを通じた、1945年から58年までのフランス映像文化をめぐる第一級のクロニクルとしての姿を現すはずである。
次年度は本研究会が助成を受けている科研費の最終年度に当たる。本誌も次号をもって完結することになるだろう。最終号にふさわしい内容とするべく鋭意努力したい。
(J. H)