2021/04/16

『アンドレ・バザン研究』第5号の入手方法

  『アンドレ・バザン研究』第5号は非売品で、国会図書館および一部の大学図書館を除いて、一般に流通しません。

 入手を希望される方には、実費(送料分)で送付いたします。任意の封書に①『アンドレ・バザン研究』第5号を希望する旨のメモ、②送付希望先の住所・氏名を記載したスマートレター(180円)の2点を封入のうえ、以下の宛先に郵送してください(往信の切手代はご負担ください)。折り返し、封入いただいたスマートレターにて第5号をご送付いたします。

 ただし、新型コロナウイルスの影響が見通せないことから、発送作業は2021年5月以降に順次行う予定で、場合によっては一ヶ月程度ずれこむ可能性もあります。遅延しても必ず発送はいたしますので、どうかその旨、ご了承のうえお申し込み下さいますようお願いいたします。

【送付先】
〒990-8560
山形県山形市小白川町1-4-12
山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内 アンドレ・バザン研究会

※スマートレターは全国の郵便局等でお買い求めください。スマートレター以外の方法による送付はいたしかねますので、必ずスマートレターをご用意ください。

※現在、頒布が可能なバックナンバーは、第3号、第4号のみとなっています。このエントリーに記載のとおり、『アンドレ・バザン研究』第1号および第2号の頒布は終了しておりますので、ご留意ください。

※バックナンバーの入手を希望される場合は、必ずご希望の号を明記のうえ、送付希望先の住所・氏名を記載した冊数分のスマートレターを封入して下さい(万が一ご希望の号が不明な場合は、より新しい号を発送させていただきます)。厚さの関係で、複数の号を一つのスマートレターに同梱することはできかねますので、ご留意下さい。

※残部僅少となった場合、このブログでも告知し、受付を中止します。
以上

『アンドレ・バザン研究』第2号 頒布終了のお知らせ

 このエントリーに記載のとおりすでに頒布終了している『アンドレ・バザン研究』第1号に加えて、第2号も好評につき残部がほぼ尽きましたので、本日をもって頒布を終了いたします。今後、増刷の予定もありません。

 閲覧にあたっては、お手数ですが、国会図書館(こちらを参照)や、大学図書館(こちらを参照)をご利用いただければ幸いです。

2021/03/31

『アンドレ・バザン研究』第5号の刊行

  アンドレ・バザン研究会では、2020年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第5号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=角井誠、堀潤之、伊津野知多、2021年3月31日発行、A5判140頁、ISSN 2432-9002)。なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします。




 本号の目次は以下の通りです。

[特集]不純なバザンのために
角井誠「リアリズムから遠く離れて――アンドレ・バザンのアニメーション論」
アンドレ・バザン「アニメーション映画は生き返る」(角井誠゠訳)
アンドレ・バザン「倫理的リズムあるいは九去法」(角井誠゠訳)
アンドレ・バザン「ペリの危機」(角井誠゠訳)
伊津野知多「不純な存在への賭け――バザンとテレビ」[解題]
アンドレ・バザン「永遠についてのルポルタージュ――『ロダン美術館訪問』」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「映画館よりテレビ向きの映画もある」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「テレビの美学的な未来――テレビは最も人間的な機械芸術だ」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「テレビ、誠実さ、自由」(伊津野知多゠訳)
細馬宏通「3D映画のミザンセヌ――『ダイヤルMを廻せ!』を捉え直す」[研究ノート]
三浦哲哉「魂の現実性とは何か――翻案、預言、反復」[研究ノート]

 [小特集]バザンの収容所映画論
堀潤之「リアリズムの臨界――バザンと収容所映画」[解題]
アンドレ・バザン「『最後の宿営地』」(堀潤之゠訳)
アンドレ・バザン「収容所的ゲットー――『長い旅路』」(堀潤之゠訳)
アンドレ・バザン「『夜と霧』」(堀潤之゠訳) 

 巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介を含んでいるので、以下、その全文を掲げておきます。

映像の「実存」――第五号イントロダクション
角井誠

 「不純な映画のために――脚色の擁護」(1952)のなかでバザンは、サルトルの「実存は本質に先立つ」という文句を踏まえて次のように書く。「映画に関して、実存はその本質に先立つといわなければなるまい。批評家は映画の実存から出発すべきなのだ――それに大胆きわまる拡大解釈を加えようとする場合でも」(『映画とは何か(上)』岩波文庫、2015年、168頁)。映画を何らかの「本質」によって規定する本質主義と訣別し、移りゆく映画の「実存」に寄り添おうとする批評家バザンの姿勢が鮮明に打ち出されたこの一節には、ずっと心惹かれるものがあった。

 もちろん、バザンにも本質主義的な側面はある。写真映像の特性を起点にリアリズムの美学を語るバザンは、ときに本質主義に限りなく接近する。本誌第二号掲載の最初期の論考「リアリズムについて」などがその最たる例だろう。他方で、バザンは、文学や演劇の脚色の増加という現象を前に、それを本質主義のもとに断罪するのでなく、「不純な映画」として擁護した。バザンが論じた「映画の実存」は、脚色映画ばかりではない。1950年代には、テレビが普及し、それに伴って映画も変容を被った(シネラマやシネマスコープなどの大型スクリーン、3D映画の登場など)。バザンが、そうした変容にもしかるべき批評的関心を寄せていたことはこれまでも知られてきた。

 そして2018年のバザン全集刊行は、映像の「実存」に対するバザンの関心のさらなる広がりを明らかにしてくれた。二巻本でほぼ三千頁の全集には、三千篇近いテクストが並ぶ。長文の論考で理論的な思索を深める一方で、バザンは時評家としてテレビも含む膨大な作品を取り上げていった。日刊紙『ル・パリジャン・リベレ』に書かれた時評だけでもおよそ千四百篇と全集の約半数を占める。「映画の実存から出発すべき」という言葉は決してはったりではなかったのである。本号では、(実写の)映画ばかりでなく、多種多様な映像の「実存」と向き合うバザンを「不純なバザン」と名付けて特集タイトルに掲げた。バザン自身の用法では、「不純な映画」は、映画と他の諸芸術の関係にのみ関わるものであるが、ここでは「不純」の語をやや広義にとらえた。

 まず、拙論とともに、バザンのアニメーション論の翻訳を掲載する。バザンがアニメーションについても時評や批評を書いていたことはあまり知られていない。『全集』の頁を繰るうち、ふと目に止まったアニメーションについての時評に興味をそそられて、アニメーション論を体系的に読む作業を行った。拙論は、同時代の文脈を踏まえ、バザンのアニメーション論を辿るものとなっている。ディズニーに対するアンビヴァレントな関係や、反ディズニー的な「アニメーション映画」への関心は、バザンの映画論を考えるうえで新たな視座を与えてくれるのではないかと思う。また、CGの導入に伴って実写とアニメーションの境界が揺らぐ現在、「カートゥーン・フレンドリー」なバザンに光を当てることにも少なからぬ意義があると信じたい。

 続いて、伊津野知多氏による解題とともに、バザンのテレビ論をお届けする。先行研究を紹介しつつ、バザンのテレビ論の主要なモチーフを浮かび上がらせる伊津野氏の解題は、きわめて有用なイントロダクションとなっている。そこでは、対象を映画からテレビに変えつつも、メディウム固有の美学や心理学、「不純なテレビ」の可能性を探るバザンの姿が精緻に描き出される。新たなメディアと向き合うバザンの果敢な思索は、変化するメディア状況の中にいるわれわれにも示唆を与えてくれるに違いない。 細馬宏通氏による寄稿は、バザンの3D映画論を起点に、彼自身は見ることのできなかった『ダイヤルMを廻せ!』(1954)の3D版を分析することで、3D映画に固有の演出に迫ろうとする刺激的な論考である。「ゼロ平面」や「ゴースティング」などの概念を発明しつつ、3D映画の美学的可能性を描き出すその見事な手つきは、バザンのそれを彷彿とさせさえする。

 三浦哲哉氏の研究ノートは、バザンの「『田舎司祭の日記』とロベール・ブレッソンの文体論」を再読するもので、語の本来の意味での「不純な映画」に関わる。しかし三浦氏は、「魂」や「預言」の語に着目し、バザンの議論の根底で作動するカトリシズム特有のイメージ論を炙り出すことで、バザンの映画論を大胆に読み直してみせる。

 小特集「バザンの収容所映画論」では、堀潤之氏による解題とともに、強制収容所をめぐるバザンの映画評の翻訳をお送りする。バザンのリアリズム論が、写真映像の特性ばかりでなく、強制収容所など「現実世界をめぐる状況論」にも由来するという堀氏の鋭利な指摘にあるように、これらのテクストは、特集とはまた別の角度から、バザンの本質主義、リアリズムを問い直すものであるだろう。

 全体として、本号では比較的知られていないバザンの顔に光を当てることとなった。バザンの批評は広大である。そこにはまだ、われわれの知らないバザンが眠っている。

 続いて、堀潤之による編集後記の全文です。

 前号のイントロダクション「『バザン全集』からの再出発」で、私は2018年末に刊行された全集がもたらした衝撃について語り、「今後の本研究会は、『全集』をバイアスなしに読み込む作業を積み重ねつつ、再び何らかの意味的なまとまり――願わくば未聞の――を見出してゆかねばならないだろう」と述べた。本号の特集「不純なバザンのために」で取り上げたアニメーション論とテレビ論という二つの「まとまり」は、まさに『全集』が可能にした綿密な読解作業を礎に成り立っている。

 なるほど、いずれのトピックも「未聞」とまでは言えないかもしれない。野崎歓氏もエルヴェ・ジュベール゠ローランサン氏も、バザンとアニメーションという一見したところ相容れない組み合わせに早くから注目していたし、テレビ論に関しては、とりわけダドリー・アンドルー氏が編纂した『アンドレ・バザンのニューメディア』(2014)に英訳がまとめて収録されて以降、その存在が広く知られ、様々な観点からの研究が活発になされているからだ。とはいえ、バザンの数多あるアニメーション論およびテレビ論を渉猟し、そのエッセンスを論考ないし解題で独自の観点から浮き彫りにし、幾つかのキーテクストを訳出した角井誠氏と伊津野知多氏の貢献は決して小さなものではないだろう(なお、これまでの号と同様、論考については厳正な査読を行い、翻訳もすべて綿密なピアチェックを経ていることを付言しておく)。特集には、バザンを一つの契機として3D映画論という未踏の領域に切り込まんとする細馬宏通氏と、バザンのよく知られた脚色映画論を搦め手から見事に読解する三浦哲哉氏の研究ノートがさらなる彩りを添えてくれた。

 小特集「バザンの収容所映画論」でも、バザンの相対的に知られざる三篇の映画評を繋ぎ合わせることで、ごく小規模なものとはいえ、私なりに「未聞のまとまり」を見出そうとした。これが単なるマイナーな記事の発掘にとどまるものではなく、戦時下のユダヤ人大虐殺の表象をめぐる「ランズマン以前」の議論の地平を見据えるための作業であることが、解題によって詳らかになっていることを願うばかりである。

 今回、バザンが日刊紙『ル・パリジャン・リベレ』に寄せた一四〇〇本近くの掌篇のうちの二篇を、本誌で初めて訳出できたのも嬉しいことだ。バザンがその決して長くない批評家としてのキャリア全体を通じて、ほぼ三、四日に一篇のペースで書き続けた短いながらも鋭利な評には、しばしば後に別の媒体で発展していく論点が凝縮されていることも多く、従来アクセスが困難だったこれらのカプセル・レビューを一種の「映画日誌(シネ・ジュルナル)」として読み進めることは、『全集』が著しく容易にしてくれた大きな楽しみの一つなのである。巻頭言で角井氏も言うように「映画の実存」を克明に記録したこれら一連の時評は、通読すれば、バザンという強靱な知性のプリズムを通じた、1945年から58年までのフランス映像文化をめぐる第一級のクロニクルとしての姿を現すはずである。

 次年度は本研究会が助成を受けている科研費の最終年度に当たる。本誌も次号をもって完結することになるだろう。最終号にふさわしい内容とするべく鋭意努力したい。 
(J. H)

2020/04/09

『アンドレ・バザン研究』第4号の入手方法

 『アンドレ・バザン研究』第4号は非売品で、国会図書館および一部の大学図書館を除いて、一般に流通しません。

 入手を希望される方には、実費(送料分)で送付いたします。任意の封書に①『アンドレ・バザン研究』第4号を希望する旨のメモ、②送付希望先の住所・氏名を記載したスマートレター(180円)の2点を封入のうえ、以下の宛先に郵送してください(往信の切手代はご負担ください)。折り返し、封入いただいたスマートレターにて第4号をご送付いたします。

 ただし、新型コロナウイルスの影響で当面、通常の業務体制が整わないことから、発送作業は2020年5月7日以降に順次行う予定です。どうかその旨、ご了承のうえお申し込み下さいますようお願いいたします。

【送付先】
〒990-8560
山形県山形市小白川町1-4-12
山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内 アンドレ・バザン研究会

※スマートレターは全国の郵便局等でお買い求めください。スマートレター以外の方法による送付はいたしかねますので、必ずスマートレターをご用意ください。

※発送作業は研究所の所員が行うため、出張などにより発送まで10日間程度の期間をいただくこともあります。また、授業期間外の場合、発送まで大幅に時間がかかることもあります。どうかご了承ください。

※このエントリーに記載のとおり、『アンドレ・バザン研究』第1号の頒布は終了しておりますので、ご留意ください。

※第2号、第3号はまだ残部があります。あわせてバックナンバーの入手を希望される場合は、必ずご希望の号を明記のうえ、送付希望先の住所・氏名を記載した冊数分のスマートレターを封入して下さい(万が一ご希望の号が不明な場合は、より新しい号を発送させていただきます)。厚さの関係で、複数の号を一つのスマートレターに同梱することはできかねますので、ご留意下さい。

※残部僅少となった場合、このブログでも告知し、受付を中止します。
以上

2020/03/31

『アンドレ・バザン研究』第4号の刊行

 2016年6月に山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内に発足したアンドレ・バザン研究会では、その2019年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第4号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=堀潤之、伊津野知多、角井誠、2020年3月31日発行、A5判116頁、ISSN 2432-9002)。なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします。


 本号の目次は以下の通りです。

角井誠「存在の刻印、魂の痕跡――アンドレ・バザンの(反)演技論」
ダドリー・アンドルー「バルト、バザン、エクリチュール」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「『希望』あるいは映画におけるスタイルについて」(堀潤之゠訳)
アンドレ・バザン「スクリーン上の死」(角井誠゠訳)
アンドレ・バザン「報道か屍肉食か」(角井誠゠訳)
谷昌親「死骸的現存としてのイメージ――映画『闘牛』をめぐるバザンとレリスの交錯」

 巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介を含んでいるので、以下、その全文を掲げておきます。

『バザン全集』からの再出発――第四号イントロダクション
堀潤之

 バザンが生誕100周年を迎えた2018年も暮近く、本研究会の界隈は、ついに刊行された浩瀚なバザン全集(André Bazin, Écrits complets, édition établie par Hervé Joubert-Laurencin, Éditions Macula, 2018)の話題で持ちきりだった。日本学術振興会外国人研究者招へい事業の助成で来日していたダドリー・アンドルー氏の講演を軸にしたイベントを12月16日と20日に東京と山形で開催した際にも、コーヒーブレークにはとかく、三千頁のうちにおよそ2700篇の記事がぎっしり詰まった二巻本によってもたらされた衝撃が口の端に上った。私たちはすでに、バザンがその短い生涯で書いた文章が、『映画とは何か』全四巻を筆頭とする十数冊の単行本に収められた分量のおよそ十倍に及んでいることを知っていたし、まさにアンドルー氏その人の尽力で公開されたオンラインの書誌データベース(https://bazin.yale.edu/)を活用して、書庫に潜っては単行本未収録の記事を繙読していた(その成果の一端は、本誌でこれまで披露してきたとおりである)。しかし、こうしてバザンの全記事が、編者エルヴェ・ジュベール゠ローランサンによる周到な校訂を経て、有用きわまりない解説文と無数の活用法を見出しうる五種類の索引とともに重厚な物質的な塊として送り届けられると、私たちの知るバザンがやはり氷山の一角でしかなかったことが明白な事実として実感されたのである。

 しかも『全集』は、24の区切りに沿って、全記事をひたすら時系列順に並べている。この単純な仕掛けによって、私たちは一般的に流布しているバザンのさまざまな問題設定――作家主義、リアリズム、映画と他の諸芸術、映画の社会学、等々――をいったん括弧に入れて、徒手空拳でテクストに向き合うように迫られる。バザン自身がある程度まで構想したはずの『映画とは何か』四巻の構成という括りすらいったん解体するこの『全集』という装置は、そのささやかな偶像破壊的身振りによって、先入観なしにバザンを読むことへと読者を改めて誘っているのだ。

 本号に収められているのは、各執筆者がおそらくはその誘いにも乗って、それぞれの仕方で、新しいバザン読解を模索した試みの成果である。巻頭を飾る角井誠氏の「存在の刻印、魂の痕跡――アンドレ・バザンの(反)演技論」は、生誕100周年記念イベント(東京)での発表から生まれたもので、俳優論・演技論という新しい切り口からバザンのテクストを再読している。バザンの存在論的リアリズムが俳優を対象に据えたときに何が起こるのか、それは俳優をスターの「神話」から読み解くバザンのよく知られたアプローチとどう異なるのか、こうした新たな問いの数々はこれまでとは違った角度からバザンを捉える可能性を切り拓いているように思われる。

 続くアンドルー氏の「バルト、バザン、エクリチュール」は生誕100周年記念イベント(山形)の講演に端を発するもので、前号に掲載した氏の論考「この残酷な世界へのバザンのインテグラルな視座」に続いて、英語での公刊に先立って最新の成果をここに訳載することができたのは大変悦ばしいことだ。元々は「映画とアダプテーション」という枠組みでの講演だったが、バザン研究では馴染み深い「脚色」の問題系をはるかに超えて、アンドルー氏は、相対的に知られていないものを含むバザンの多数のテクストを軽やかに渉猟しながら、それらとバルトの「エクリチュール」概念との共鳴を探っている。

 バザンを同時代の知的コンテクストへと開いていくという構えは、特別寄稿をいただいた谷昌親氏による「死骸的現存としてのイメージ――映画『闘牛』をめぐるバザンとレリスの交錯」にも共通する。2018年11月に山形大学で生誕100周年プレイベント「バザン、レリス、闘牛」を開催した際に、大久保清朗氏による日本語字幕付きで初上映されたピエール・ブロンベルジェのドキュメンタリー映画『闘牛』La Course de taureaux(1951)の解説をしていただいたことをきっかけに生まれたこの論考では、バザン、レリス、さらにはブランショのありえたかもしれない接点がスリリングに探られ、バザンの映像論を、文学と哲学の領域におけるより広範なイメージ論の文脈へと接ぎ木している。なお、谷氏の論考が、それに先立つ二篇のバザンの記事(これまで未邦訳だった「スクリーン上の死」、「報道か屍肉食か」)とともに、「死の表象」をめぐるセクションをゆるやかに形作っていることも付け加えておこう。

 本号ではもう一篇、バザン最初期の未邦訳のテクスト「『希望』あるいは映画におけるスタイルについて」を訳出した。ここで扱われているアンドレ・マルローの唯一の映画には、私自身、並々ならぬ興味を抱いていた。野崎歓氏がかつて記したように(「アンドレ・マルローの聖別」、『ユリイカ』1997年4月号)、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちはたびたびマルローに言及していたし、その後、ゴダールも『映画史』(1988-98)でこの映画を引用し、ストローブもまた『共産主義者たち』(2014)と『水槽と国民』(2015)でマルローの「脚色」を手がけているからだ。加えて、バザンその人が徒手空拳で映画に向き合う始まりの場にも関心があった。実際、本論考は単なる作品論を超えて、小説の文彩(省略や直喩)と比較したときの映画の表現の可能性と限界を掘り下げた、まことに気宇壮大な考察となっている。同じく1945年に発表された「写真映像の存在論」が提示する映画の根本的な特質とはまったく異なる映画の特質が、ここで捉えられているのだ。バザンの探究は、映像の存在論だけでなく、映像の修辞学にも、もう一つの軸足を置いて開始されたのではないか、と考えたくなる所以である。

 本号を貫いているのは、こうして既知のバザン像をあえて遠ざけて、いわば初心にかえってバザンを読むという態度である。今後の本研究会は、『全集』をバイアスなしに読み込む作業を積み重ねつつ、再び何らかの意味的なまとまり――願わくば未聞の――を見出してゆかねばならないだろう。

 続いて、伊津野知多氏による編集後記の全文です。

 第四号は前号に引き続き、本研究会が2018年に東京と山形で三度にわたって開催したバザン生誕100周年記念関連イベントで提起された問いを発展させたものとなった。バザン的な映像の存在論に対しては、ブランショの「死骸的現存」という概念を通して光を当てる谷昌親氏の特別寄稿と、演技論という切り口から迫る角井誠氏の精緻な論考を、またもうひとつの大きなテーマである映画言語や文体論、脚色に対しては、ダドリー・アンドルー氏による「エクリチュール」という観点からの特別寄稿を掲載することができた。またバザンの未邦訳文献としては、映画的表象の臨界点ともいえる「死」をめぐる小論二篇と、その後のバザンの問題系が凝縮して現れているような初期の批評一篇の翻訳を、読み応えのある解題とともにお届けする。レリス、ブランショ、バルト、マルローなど、同時代の言説を通して歴史的・社会的な文脈のなかでバザンを捉え直すという視点も本号の執筆者に共通するものだが、直接的な交流ではなく、あくまで書物や作品というテクストを通じた想像的な出会いのなかにバザンと彼らの関係が探られている。そこにはバザンの核心に関わる思いがけない発見があった。

 バザンは存在を死によって、映画を小説(や他の諸芸術)によって、演技を反演技によって語る。こうした態度はある意味で一貫しているが、逆説の中にこそバザンの理論的想像力があり、新しい何かに答えを与えるために設定された仕掛けだったのではないかと感じる。映画の進化や「アヴァンギャルド」にこだわり、映画はまだ発明されていないとさえ言うバザンが求めていただろうその何かを、私たちは彼の文章の細部から再構築していきたいと思う。論考については厳正な査読を行い、翻訳については綿密に相互チェックすることで、できる限り精確な言葉でそれを読者に届けられるよう努めた。

 2018年に刊行された『バザン全集』とともにバザン研究の新局面を迎えた2019年、私たちはこれまでとはちがった形でバザンに向き合うようになった。情報収集という面で利便性が向上したのはもちろんだが、それにとどまらない衝撃があったことは堀潤之氏の巻頭言にある通りである。この突如として全貌を現した未踏の大地には、想像していた以上に刺激が満ちている。その細部に眼をとめて存分に観察するばかりでなく、積み重なった地層や、場所ごとの植生の違いを調べて、彼の思想の変化や年を経ても変わらない根のようなものを探っていくこともできるだろう。思えばバザンと私たちは既に出会い損ねており、ただテクストを通して向き合うほかない。しかしだからこそ、ひとつひとつの文章のなかに彼の存在の痕跡を探すのだ。本研究会員もそれぞれの関心によってさまざまなルートから探索を開始している。今回の編集作業を通して、執筆者や研究会メンバーたちと探索を共にできたことはとても貴重な体験だった。遭難しかけたところを救われたことも多く、感謝するとともに足腰を鍛えておくことの必要性を感じている。これから一気に加速しそうなバザン研究のベースキャンプのひとつとして、今後も本研究会が機能できればうれしい。 
(J.H.)

2019/04/15

【寄稿】バザン生誕100周年記念イベント パート1報告

映画体験に差し込む「光」

——バザン生誕100周年記念イベント「21世紀のアンドレ・バザンに向けて」を振り返って

原田麻衣

バザンの映画論を取り巻く状況

 2018年12月16日、アンドレ・バザン生誕100周年記念イベントの第一部が東京大学で開催された。バザン研究の第一人者であるダドリー・アンドルー氏の基調講演に始まり、「バザンのアクチュアリティ」をテーマとした野崎歓氏、濱口竜介監督、三浦哲哉氏のラウンドテーブル、「バザン研究の現在」として堀潤之氏、角井誠氏、伊津野知多氏の研究発表が行われたこの6時間にわたるイベントは、まさしく「21世紀のアンドレ・バザンに向けて」という題が示すように、バザンの今日的意義を緻密に描き出すものであった。
 個々の内容を紹介する前にまず、バザンの映画論——とりわけリアリズム論——をめぐる学術的な議論について簡単に触れておきたい。ピーター・ウォーレンのバザン解釈以降、「写真とはモデルそのものなのだ」*1と主張するバザンのリアリズム論はしばしば、「インデックス」、つまり、記号とその対象が物理的に結びつくような「指標記号」の概念から捉えられてきた*2。しかしバザンのリアリズム論を記号論の枠組みに閉じ込めるのは困難なようである。例えばノエル・キャロルが言うように、リアリズムの問題を写真映像のインデックス性に還元する見方は、映画の「フィクション性」を見落とすことになりかねない。『M』(フリッツ・ラング、1931年)は主人公を演じたピーター・ローレの表象ではないし、クリスチャン・ディオールの広告に登場するキャラクターが劇作家アンドルー・グレゴリーをモデルにしているからといって、その広告が彼の表象というわけではないのである*3。そこで、近年ダニエル・モーガンをはじめとする論者は、バザンのリアリズム論を「インデックス」の観点から捉えることに疑義を呈している*4。同様の立場から、バザンの主張するリアリズムの構造を鮮やかに図式化した伊津野氏の論考「アンドレ・バザンのリアリズム概念の多層性」*5には注目すべきである。そこで示されているのは、バザンによるリアリズム概念が、「存在論的リアリズム」、「美学的リアリズム」、「心理的リアリズム」の三層から成り立っているということである。「存在論的リアリズム」とは「映画が現実を記録する能力を指す」(113)。そこで問題となるのは、「人間化されていないイメージ(超現実)」であり、「精神的なもや」がつきまとう「人間化された現実のイメージ(一般的な意味での現実)」ではない(123)。そして「映像の「記録」の力を最大限に生かすような映画的「表現」」形式が「美学的リアリズム」である(131)。そのような「美学的リアリズム」によって観客は、「精神的なもや」のかかっていないイメージと対峙し、「知覚の真の条件の中に置き直」され、「日常的な人間の知覚の条件を反射的に意識」するようになる。そうした「現実との関係を再構築するよう私たちを誘う知覚の教育学」が「心理的リアリズム」である(129)。伊津野氏が提示したこの見方は、インデックス性を超えてバザンのリアリズム論を把握することの必要性を強調すると同時に、これまで二分されることの多かったバザンにおける存在論と美学の問題を一体のものとして捉えている点で重要である。そして本イベントで展開されたそれぞれの議論は、こうしたバザン再評価の流れを汲むもので、とりわけ、バザンのリアリズム論の基盤には「存在論的リアリズム」があり、それを前提とした「美学的リアリズム」が機能しているという上に見たような見取り図が共通認識として存在していたといえるだろう。

ポストヒューマン的バザン

左よりアンドルー氏、野崎氏(総合司会)、木下千花氏(通訳)
 アンドルー氏の講演「この残酷な世界をめぐるバザンの統合的パースペクティヴ」(その後、講演に基づく論考が『アンドレ・バザン研究』3号に掲載された)は、「量塊(ヴォリューム)」そして「統合=積分的(インテグラル)」という二つのキーワードを軸にバザンによる論考を空間の問題として考察するものであった。アンドルー氏がまず強調したのは、映画芸術に対するバザンの確信である。バザンは映画について、一貫した形式的な選択を通して統合=積分することで全体の近似値が得られるような現実を描写/図示しうるものと考えていた。つまり、キャメラは人間の知覚を超えた世界/空間のなかを自在に動き、映画はそこに存在する「時空間のかたまり」を提示しているということだ。では「時空間のかたまり」の提示とは具体的にどのようなことを指すのだろうか。それは「美学的リアリズム」の問題にかかわってくる。アンドルー氏が着目したのは「換喩(メトニミー)」や「緩叙法(リトート)」に相当する技法であった。「換喩」とは、ある事物を表すのにそれと深い関係のある事物で置き換える修辞法であり、「緩叙法」とは控えめな表現によってより効果を強める修辞法である。こうした表現はバザンが擁護した映画作品に共通するという。例えば、オーソン・ウェルズ『偉大なるアンバーソン家の人々』(1942)では後景に見えるドアからの人物の退場がアンバーソン家の衰退を示唆しており、ロベルト・ロッセリーニ『戦火のかなた』(1946)ではピエタを彷彿とさせる構図で捉えられた男女——とりわけ、まさに死を迎えようとしている男性から自分の恋人が亡くなったことを告げられる女性の顔——がファシズムに対する勝利や都市の再統一を間接的に表している。つまりこれらの作品において、ある「時空間のかたまり」は、それを超えて存在しうるさらに大きな世界/全体を示しているのである。このようないわば人間の知覚を超えた世界の提示は、非人間的な視点が用意されることでも達成される。その好例が「動物の視点」だという。講演中に挙げられた多彩な例から少し取りあげてみると、例えばジャン・ルノワール『ゲームの規則』(1939)では狩りの帰り双眼鏡を覗いた先に浮気現場の見える有名なシーンがあるが、その少し前に観客は何度かこちらを向くリスと対峙する。このときわれわれは、道徳的な人間の世界を問い直すような「残酷」な視線に貫かれることになる。同様のことはタル・ベーラ『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(2000)における死んだクジラの目や、さらにはアッバス・キアロスタミ『10 on Ten』(2004)におけるアリの穴についてもいえるとアンドルー氏は指摘した。
 バザンの映画論がポストヒューマンの視座から見直されたこの講演では、「統合=積分的なリアリズム」という概念をもってまさに「バザンの統合的パースペクティヴ」が描出された。バザンの多用した動物や地質学、幾何学にかかわるメタファーの内実を探りつつ、彼の評価した作品が、そしてその延長線上で21世紀の作品までもが「統合=積分的なリアリズム」の観点から読み解かれた点にも注目すべきである。

「メトニミー」とカタストロフ

左より三浦氏、濱口氏、藤原敏史氏(通訳)、アンドルー氏、野崎氏
 三浦氏、濱口監督、角井氏の発表は、おおよそ「存在論的リアリズム」を前提とした「美学的リアリズム」の諸相に主眼がおかれたものだといえよう。三浦氏の発表では、アンドリュー氏の講演を受けて「メトニミー」の問題が深く掘り下げられた。今日の映画において「メトニミー」が有効となっている具体的な題材として提示されたのは「カタストロフ」である。例えば、オニムバス作品『11’09”01/セプテンバー11』(2002)でショーン・ペンが手掛けた短編において、ワールド・トレード・センターの崩壊は、これまで部屋を覆っていた影がみるみる消えてゆき、同時に光が差し込んでくるショットで示される。このショットを含むシーンについて補足的に説明しておくと、そこでは同時に、家族を失い薄暗い自分だけの空間に閉じこもっていた老人が、突如差し込んできた光を浴びて美しく蘇った花に感動するも、それを見せる相手がいないことから孤独を直視する様子が描かれている。それゆえ映画全体のトーンはかなり感傷的であるが、ビル崩壊のショットだけは異なるという。この例をもって三浦氏が明らかにしたメトニミーの意義はおおよそ次の二点に要約されるだろう。まず、メトニミーはショットにおける「想像の対象となる空間」と「現実に存在して発見の対象となる空間」の両義性を可能にする。そしてカタストロフを対象としつつも、ビルの倒壊と老人の築き上げた虚像の崩壊が「空間的配置の変化」のみで示されるがゆえに感傷性に陥ることがないのである。
 さて、この議論の根底にあるのはやはり「見えないものの可視化」にかんする問題である。アンドルー氏は『11’09”01/セプテンバー11』のショットに対応するものとして、ロベルト・ロッセリーニ『イタリア旅行』(1954)における遺跡発掘のシーンを挙げていた。火山の噴火で亡くなった人の体が溶岩のなかに空洞として残り、そこに石膏を流し込んで死者の姿を浮上させる。「ネガ状のもの」から「ポジ」を作り出すことは、バザンにとって失われたものの再現を可能とする唯一の道であったようである。最後に、『11’09”01/セプテンバー11』における影がおそらくCGで制作されていることを言い添えておきたい。この点は、今日の映画におけるCGの使用をバザン的な観点からどのように捉えうるのかという議論の契機となるのではないだろうか。

書かれたせりふと「声」

 濱口監督の発表では、バザンの文章における「両義性」と映画に備わる性質との親和性に目が向けられた。映画のもつドキュメンタリー性とフィクション性は、撮影現場において常に「何を記録し、どの程度断片化するか」という問いをもたらすという。こうした異なる性質の共存からくる現場での苦悩を、バザンは映画について書くうえで共有していたようである。例えば、一見反リアリズムとも思える演劇映画とバザンのリアリズム論との関連性は、せりふ=書かれた言葉に付随する演劇的不自然さをどうするか、という現場での問いに直結すると濱口監督は指摘した。ここでかの有名な論考「演劇と映画」(1951)の詳細を述べることはしないが、バザンの評価した演劇映画とは、要するに「映画にしようとする配慮」*6が見られない作品である。あくまで「演劇に従」*7わなければならず、そのためには「潜在的に演劇である」*8せりふを受け入れることがまずもって重要となる。濱口監督が着目したのは、この「演劇に従う」という表現にみられるバザンの映画観が、1944年に発表された「リアリズムについて」*9ですでに確認できることである。そこではマックス・ランデールの作品やムルナウの『タブウ』(1931)のような作品がまったく古びないのは、「リアリズムに服従」しているからだと説明されている。つまり、機械的な生成によって可能となった写真映像の客観的なリアリズムに従うことで、それらの作品は「瞬間の正確さ」に到達し、それゆえ永続性を獲得しているのである。発表では、この「瞬間の正確さ」——これは広義のアダプテーションにおける存在論的同一性、とも言い換え可能であろう——について二点の具体例が挙げられた。一つは先にも触れた「せりふ」である。せりふに備わる演劇的不自然さを受け入れ試行錯誤を繰り返す。そのプロセスを経て、いわば演劇と映画のアマルガムとしてのせりふがあらわれてくる。もう一つは俳優の身体の内的な状態を露呈するものとしての「声」である。発表では『ジャン・ルノワール』からバザンの文章とルノワールになされたインタヴューが引かれ、こう言ってよければ、俳優と登場人物のアマルガムとなりうる声に対するバザンおよびルノワールの関心が垣間見えた。
 濱口監督の発表を受けてアンドルー氏が言及したのは、バザンのテクストにみられる不純さへの信仰についてであった。バザンは演劇をヨーロッパの大劇場にある大きなシャンデリアに、映画を映画館で足元を照らす懐中電灯に見立てたことがあったという。その意味で演劇の映画化はアマルガムのようなものであり、シャンデリアに懐中電灯を当てるとまた別の光り方をして、映画についても演劇についてもより多くのことを学べるのではないか、というバザンの意識がうかがえるとアンドルー氏は指摘した。そしてそれはプロの役者と素人の組み合わせから、それぞれだけでは持っていない力を作り出す「混合の法則」*10とも重なる。異なる性質をもつものの組み合わせがうまくいけばより鋭いものが出来上がる。こうした思考がバザンのアダプテーション論を支えているのである。

バザンの演技論

左より伊津野氏、角井氏、堀氏、藤原氏(通訳)、アンドルー氏、野崎氏
 「写真とはモデルそのものなのだ」というとき、モデルとは具体的にいかなるものか。濱口監督の発表内容にも通じるこの問いに対し、角井氏の研究発表「俳優の逆説——アンドレ・バザンの演技論」では演技論の観点から答えが提示された。角井氏がまず指摘したのは、バザンが「表現としての演技」を退け、「痕跡としての演技」を評価したことである。前者が「心理の間接的表現」であるのに対し、後者は「魂の直接的翻訳」を指す。ここでもバザンはもっともらしく見せるような「配慮」を批判しているのだ。とはいえ「魂の直接的翻訳」はどのようにして可能となるのか。角井氏によって引かれたバザンのテクストからわかるのは、魂があらわれるのは顔/表皮であるということだ。この発想は、機械的生成によって現実がフィルム/皮膜に刻まれるという発想に合致する。したがってこのとき魂の痕跡としての顔/表皮は、その人物の「インテグラルな存在」を提示することになる。さらにこうした顔/表皮は、「きわめて即物的、身体的で、人間よりも自然や動物、事物の秩序に近しいものとして描き出される」という。発表中に紹介されたバザンのテクストから一部をここに書き出してみると、例えばロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』(1951)における顔の表皮の動きは「出産や脱皮の際の脈絡のない痙攣」*11と記され、カール・テオドア・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』(1928)における顔の表皮の動きは「地震の揺れ」や「潮の流れ、満ち引き」に譬えられている*12。心理的表現が剥ぎ落とされ俳優が非人間的なものへ生成変化していくという話は、この日の基調講演でバザンのテクストにおける非人間性が強調されたこともあり、非常に興味深かった。
 とはいえ「魂の痕跡」という場合、その魂は誰のものなのか。それは俳優の魂と登場人物の魂が一致し、両者の区別がつかないものだという。ここで先述の「アマルガム」というタームが思い出される。そして俳優と登場人物が一致する状況を作り出すためにルノワールが採用した方法の一つとして、「イタリア式本読み」があると角井氏は指摘した。ルノワールもまた、ブレッソンと同様に、俳優から心理的表現を剥ぎ落とし、非人間化することで、俳優と登場人物が魂の次元で一致することを目指したのである。
 アンドルー氏はさらに追求できることとして、サイレントからトーキーへ移行する時期の作品において、内面にあるものがどのように外面の痕跡としてあらわれているか、そしてその形態はどのように発展したかという問題を挙げていた。それはまた、濱口監督が提示した声の問題とも接続する。さらに、ブレッソンとルノワールが、表現としての演技を避けるという共通の意識——ブレッソンは「モデル」にジェスチャーを繰り返させ、ルノワールはイタリア式本読みを取り入れた——を持っていたのにもかかわらず、出来上がった作品はまるで違うことについても言及された。バザンが「より多くの現実をスクリーンに現出させようとするシステム、あらゆる技法を「リアリズム的」と呼びたい」というとき、「同じ対象、同じ出来事について、さまざまに異なる表現が可能である」と続けた一節を思い出した*13。

バザンのテクストの生成研究

 堀氏の研究発表「「写真映像の存在論」再考——アンドレ・バザンにおける運動と静止」は「存在論的リアリズム」の問題に深く関わるもので、「写真映像の存在論」における写真と映画、運動と静止の関係性が検討された。まず「写真映像の存在論」には三つのヴァージョンがあるという。一つは1945年に『絵画の諸問題』に掲載されたもの。もう一つはそこから改稿され1958年に『映画とは何か』に収められたもの。そして、1944年の前半に執筆されたと思われる草稿*14である。そしてこの草稿が重要なのは、「写真映像の存在論」ではやや不明瞭となっている映画と写真の関係性をより詳細に語ろうとしているからだ。そこでは完成稿にはない「凝固」と「流動」のメタファーが使用され、映画装置のメカニズムについて考察されている。詳細はぜひ草稿とそれをめぐる堀氏による論考*15を参照していただきたいが、バザンは映画を、「「死んだ時間の断片」を集積し、それに「一時的な流動性」を与える「機械仕掛け」」として考えていた。ここで堀氏は、映画装置を「一枚一枚の不動の写真に「運動」を付与するもの」とするベルクソンの思考にバザンの主張との近似をみる。しかし続いて指摘されたのは、両者の決定的なずれであった。バザンは写真を、「事物の外見とともに、その外見が沈み込んでいるところの時間それ自体がとらえられている」*16ものとして把握した。つまり、写真も持続の側に位置づけられるのだ。したがって、「写真映像の存在論」完成稿に書きつけられた「映画とは、写真的客観性を時間において完成させたものである」*17という一文は文字通りの意味で把握されるという。
 しかし留意すべきは、バザンが「写真映像の存在論」の完成以降、「凝固」と「流動化」のメタファーを削除し、「型取り」という発想を取り入れたことである。写真は「瞬間」を、映画は「持続」を型取りする。ここで言及されたのは、『創造的進化』から七年後に行われたというインタヴュー*18で語られたベルクソンの映画観である。そこでは、シネマトグラフが「静止画像に「運動」という要素を加えたものとしてではなく、「唯一のものへと融合」された持続を一挙にとらえるものとして構想」されている。そしてそれは、持続をひとかたまりに型取りするというバザンの発想に共鳴するのである。
  アンドルー氏は、「写真映像の存在論」がバザンにおける最も重要な文献であると同時に映画を論じた文献のなかでもとりわけ重視すべきものだと言及した。そこには歴史的理由があるという。このエッセイはかなり初期に書かれ、2700もの文献が時系列順に収められたバザン全集*19の第25番目にあたる。そしてバザンが最も時間をかけて書き上げた文章でもあった。アンドルー氏によれば、「写真映像の存在論」の草稿は1944年6月にはすでに用意されていたという。というのも、「写真映像の存在論」の初出は『絵画の諸問題』*20においてだが、そもそもこの論集については、1944年6月の刊行が目指されていたそうだ。しかし、戦争の影響がその試みを許さず、論集の発表は見送られてしまった。
 また、45年版と58年版を詳細に比較したエルヴェ・ジュベール゠ローランサン*21が、はるかに若い時期に書かれた前者ではよりラディカルでシュルレアリスト的なバザンの思考がうかがえる、と述べていることにも言及し、バザンのテクストにかんする生成研究の重要性が指摘された。

バザンのリアリズムと観客

 伊津野氏の研究発表「存在に触れるまなざし——観客論としてのバザン的リアリズム」では、バザンのリアリズム概念を構成する「存在論的リアリズム」、「美学的リアリズム」、「心理学的リアリズム」の内実および関係性が明快に解説され、そのうえでそうしたバザン的リアリズムが観客論の視座から読み解かれた。三層から成り立つリアリズム論の概要は冒頭に触れたところと重なるため、ここでは「映像を介して現実と対峙する観客の問題」に的を絞りたい。伊津野氏によれば、「心理的リアリズム」というときの「心理」とは、「観客が映像に写された現実に向かい合う際の、いわば「体感」のようなもの」だという。濱口監督、角井氏の発表からも確認したように、バザンは「映画にしようとする配慮」やもっともらしく見せようとする表現、言い換えれば人間の手を介し「錯覚」として世界を再創造することを批判した。これらは作り手に対する要請であるが、観客にも同様に、「精神のもや」のかかった知覚を乗り越え、人間化されていない世界=「潜在的な現実」を「本物の幻覚」として知覚するように求めたのである。その意味で「バザンのリアリズムは観客にとって一種の「異化効果」となる」*22。そして、こうした観客の映画体験が「映画を見ること」であると考えれば、バザンの主張する「完全映画」の理解にも繋がるという。バザンは「芸術家の恣意的解釈という障害や、時間の不可逆性から解き放たれた似姿(イメージ)」が作り出される「総合的なリアリズム(réalisme intégral)」を「完全映画」という言葉で表した*23。ここまでに見てきたとおり、個別の視座によってとらえられる時空間のかたまりを「統合=積分(インテグラル)」することで、映画は到達しえない全体の近似値を示すことができる。そのとき、観客の映画体験は「心理的に拡張された身体感覚」となるのである。こうした「体感」とは例えば、バザンがルノワールの『素晴らしき放浪者』(1932)について書いた一節から確認できるという。この白黒映画で示される水にかんしてバザンは、「黄色がかった緑黄色の水」とあらわし、「我々にも少しずつ、その水の心地よさや深さやなまぬるさまでもが感じられる」と記述している*24。伊津野氏はこの状況こそ、観客を知覚の真の条件下に置くものであり、そのとき観客は「まなざしを通して存在に触れることになる」と指摘した。こうした感覚の「拡張」は4DXやVRによる人間的知覚の「増幅」とは本質的に異なるのである。
 アンドルー氏からは、「幻覚」がバザンにとって特別な現象であったことが補足された。バザンがブルトンやフローベールについて書いた文章では、錯覚によって作られたものよりもさらに大きな幻覚を表現することができる、という考え方が確認できるという*25。また、病弱だったバザンはしばしば高熱にうなされ、幻覚を見ることがあったようである。そして、同様の経験をしていたというフローベールにバザンは親近感を抱いており、両者とも幻覚が起こる前段階の知覚体験に関心を持っていたのではないか、と指摘された。さらに、両者の共通点として「視点の推移」が挙げられた。フローベールにおいては人物の視点に作家の視点が入り込み(自由間接話法)、バザンにおいては人物から動物の視点へという発想がうかがえる。バザンとフローベールの独特のリアリズムが「幻覚」の観点から読み解かれることは非常に興味深い。

*

 シンポジウムの最後に、フロアから「映画理論家ではなく、映画批評家としてのバザンについてどう考えるか」という質問がなされた。アンドルー氏によれば、雑誌や新聞で活躍していたバザンは、読者へのサービスもあって、俳優の演技について多くの記事を執筆していたという。それゆえ形だけのものも多いというが、「全体を見ればバザンの演技観がより理解できるように思われる」と述べていた。そして、印象的なのは、「バザンの批評を読むうえで確実に約束できることがある」と言い添えたことである。「どんなにささいな記事でも、必ずどこか一つには光があり、それは刺激的な読書体験をもたらす」。それがバザンのテクストであり、膨大な批評記事からは、いかにバザンが一貫する主張を持っていたかがみえてくるという。
 今回のシンポジウムの意義はなんといっても、バザンの映画論全体を様々な視点から一挙に見られたことにある。その結果気づかされたのは、バザンのテクストそのものが「インテグラル」なものであるということだ。そしてそこでは「曖昧さ」よりも「一貫性」が目立つように思われた。ついに全集が出版されバザンによるすべてのテクストを享受できるようになった今、映画批評や映画研究、そして映画体験に差し込むであろう「光」をたどっていくことが楽しみでならない。



*1 アンドレ・バザン「写真映像の存在論」、『映画とは何か(上)』野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳、岩波文庫、2015年、18頁。↩
*2 例えばMary Ann Doane, The Emergence of Cinematic Time: Modernity, Contingency and the Archive (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2002).↩
*3 Noël Carroll, Philosophical Problems of Classical Film Theory (Princeton: Princeton University Press, 1988), 148-149.↩
*4 Daniel Morgan, “Rethinking Bazin: Ontology and Realist Aesthetics,” Critical Inquiry 32, no. 3 (Spring, 2006): 443-481.↩
*5 伊津野知多「アンドレ・バザンのリアリズム概念の多層性」、『アンドレ・バザン研究』2号、2018年、111-136頁。↩
*6 バザン「演劇と映画」、『映画とは何か(上)』、234頁。↩
*7 同書、285頁。↩
*8 同書、231頁。↩
*9 アンドレ・バザン「リアリズムについて」堀潤之訳、『アンドレ・バザン研究』2号、8-11頁。↩
*10 バザン「映画におけるリアリズムと解放時のイタリア派」、『映画とは何か(下)』野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳、岩波文庫、2015年、89頁。↩
*11 バザン「『田舎司祭の日記』とロベール・ブレッソンの文体論」、『映画とは何か(上)』、194頁。なお、訳の改変は発表者に従う(以下同様)。↩
*12 バザン「演劇と映画」、273頁。↩
*13 バザン「映画におけるリアリズムと解放時のイタリア派」、95頁。↩
*14 アンドレ・バザン「写真映像の存在論[草稿]」堀潤之訳・注釈、『アンドレ・バザン研究』2号、15-29頁。↩
*15 堀潤之「パランプセストとしての「写真映像の存在論」——マルロー、サルトル、バザン以前のバザン」、『アンドレ・バザン研究』2号、2018年、30-55頁。↩
*16 バザン「写真映像の存在論[草稿]」、16頁。↩
*17 バザン「写真映像の存在論」、18頁。↩
*18 Louis-Georges Schwartz, “‘Henri Bergson Talks to Us About Cinema,’ by Michel Georges-Michel from Le Journal, February 20, 1914,” Cinema Journal 50, no. 3 (Spring 2011): 81-82.(大石和久「映画を語るベルクソン——「アンリ・ベルクソンが映画について語る」翻訳と注釈」、『北海学園大学人文論集』61号、2016年、4-5頁)↩
*19 André Bazin, Écrits complets, ed. Hervé Joubert-Laurencin (Paris: Macula, 2018).↩
*20 Gaston Diehl, ed., Problème de la Peinture (Lyon: Confluences, 1945).↩
*21 Hervé Joubert-Laurencin, Le sommeil paradoxal: Écrits sur André Bazin, (Montreuil: Éditions de l’œil, 2014). なお、「写真映像の存在論」の草稿はジュベール゠ローランサンによって『トラフィック』誌に掲載され、その際、詳細な解説も添えられた。この点にかんしては前述の「写真映像の存在論[草稿]」における堀氏による注釈および解題を参考にされたい。↩
*22 バザンのリアリズム論と「異化効果」の関連性は、伊津野知多「仕掛けとしての現実性:アンドレ・バザンの演劇映画論をめぐって」(『映像学』第64号、2000年)でも仔細に考察されている。↩
*23 バザン「完全映画の神話」、『映画とは何か(上)』、31頁。↩
*24 バザン『ジャン・ルノワール』奥村昭夫訳、フィルムアート社、1980年、100頁。 ↩
*25 この指摘はジャン゠フランソワ・シュヴリエによる。Jean-François Chevrier, “The Reality of Hallucination in André Bazin,” in Opening Bazin, eds., Dudley Andrew and Hervé Joubert-Laurencin (Oxford: Oxford University Press, 2011), 42-56.↩



【著者プロフィール】
原田 麻衣(はらだ・まい)
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程在籍。論文に「トリュフォー作品における脚ショットと女性像」(CineMagaziNet! No. 21、2018年)、「トリュフォー作品におけるカメラムーヴメントの説話的機能」(第69回美学会全国大会若手研究者フォーラム発表報告集、2019年)がある。

2019/04/12

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